出自と朱仙鎮の戦死
- 字は我揚、保徳州の人。天啓二年(1622年)の武會試に及第し、大同威遠守備を授けられた。崇禎の初め、大水峪遊撃に遷った。杏山城を築いて功があり、宣府西城參將に遷った。大盗の王科を撃って斬り、宣府右衛の守りに移った。通州副總兵に抜擢され、諸陵を護って功があり、元の官のまま保定総督の楊文岳の中軍を掌り、忠勇營の團練の事を兼ねた。
- 崇禎十五年(1642年)、李自成が開封を囲んで急を告げたので、名武は文岳に従って救援に向かった。当時、朱仙鎮に陣する諸軍は十余万で、左良玉が最も強かった。ある夜、その軍が大いに騒いで諸営に突入し、諸営は驚いて潰えた。良玉の軍はその混乱に乗じて諸営の馬や騾を奪って去った。こうして諸営はことごとく逃げたが、ただ名武の一軍だけが陣を堅くして動かなかった。明け方、賊が大挙して至った。名武は麾下を督して血戦し数百人を殺したが、力尽きて捕らえられ、大いに罵って賊に磔にされて死んだ。
- 特進榮禄大夫・右都督を贈られ、外衛世襲總旗を廕された。その子が王來聘・甄奇傑の例を援いて訴えたので、特進光禄大夫・左都督を贈り錦衣百戸を世襲させることが議されたが、上疏からひと月余りして都城が陥落し、実現しなかった。
附伝・王來聘
- 來聘は京師の人。崇禎四年(1631年)の武會試に及第した。当時、帝は武を重んじることに力を注いでいたが、挙子で百斤の大刀を扱える者は來聘と徐彦琦の二人だけであった。ところが彦琦が選に入らなかったので、帝は考官および監試御史を獄に下し、兵部の郎二十二人をことごとく降格し、詞臣の倪元璐らを遣わして再審査させて百人を採り、文科の榜の例にならって三甲に分け、伝臚と賜宴を行い、上位三十巻を進呈して欽定した。一甲三人のうち來聘が首位で、そのまま副總兵を授けられた。武科の榜に状元があるのは來聘に始まる。
- 來聘は拝命すると涙を流して「主上が武を重んじられることこれほどである。我らに戦場で命を効かせようとされるのだ。身を捨てて賊を殺さずして何をもって主上の恩に報いようか」と言った。
- 翌崇禎五年(1632年)、孔有徳が登州に拠って叛いた。官軍が攻めたが長く落とせず、さらに翌崇禎六年(1633年)二月、火薬で城を吹き飛ばし、城壁が壊れて将士が躍り込んだが、そのたびに賊に撃退された。來聘はまた真っ先に城壁に登り、傷を受けて死んだ。天子はこれを惜しみ、贈官と廕を手厚くした。
- 甄奇傑もまた副總兵を官し、楊文岳の麾下に属した。従って河南で賊を撃ち、戦死した。
附伝・鄧祖禹
- これより前、鄧祖禹という者がいた。蘄水の人。萬曆四十七年(1619年)の武會試に及第し、瀋陽守備を授けられた。かつて出戦して矢に当たって死んだが、夜半に蘇生した。傷が重かったので帰郷を願い出た。
- 崇禎の初め、宣府遊撃に起用されて京師に入衛した。副将の申甫の軍が壊滅すると、祖禹は盧溝橋で力戦し、涿州參將に抜擢された。上疏して召対を請うたが許されず、参内して上書し、その声はきわめて激しかったので、御史に糾弾されて獄に下された。しかし帝はかなりその言を採用した。久しくして赦されて出、辰沅參將となった。
- 苗の首領の飛天王張五保を捕らえ、斬首千五百級、その巣を平らげ、副總兵に抜擢されて徳安・黄州を管轄した。土壁山で賊を攻めた際、得た戦果をすべて隠して自分のものとしたので、当局が弾劾しようとした。祖禹は賊を討って自ら償うことを請い、そこで應城を救援するよう命じられ、七百人を率いて入城した。
- 賊が大挙して至り幾重にも包囲した。祖禹は包囲を突いて西城の外を保ったが、賊がまた包囲し、軍は敗れて捕らえられた。賊が降伏を説くと怒って罵り屈しなかった。賊が再三説くと、また罵って「そうしたければこの心と肝を取り換えてこい」と言った。賊は笑って「取り換えるのは難しくない」と言い、そのまま心を割き肝をえぐって殺した。