勇衛營の訓練と河南の戦い
- どこの人か分からない。京營參將を歴任し、勇衛營を督した。勇衛營とは騰驤・武驤の四衛のことで、その前身は御馬監に属して専ら馬を飼っていた。莊烈帝が軍備を整えることに力を注ぎ、應元および黄得功・周遇吉らを選んで訓練させ、ついに強兵となった。
- 崇禎九年(1636年)秋、張鳳翼の軍に従って畿輔で功があり、副總兵に進んだ。さらに功により秩を一等増された。
- 翌崇禎十年(1637年)、河南で賊が盛んになると、應元と得功が意気込んで出撃を請うた。帝は壮とし、兵一万を発して、中官の劉元斌・盧九徳に監させ、民を騒がすなと戒めた。諸将は命を奉じ、軍の行動は粛然としていた。十二月、鄭州で賊を大破し、さらに密縣で破り、前後あわせて斬首千七百。
- 翌崇禎十一年(1638年)正月、舞陽・光山・固始で大破し、四日のうちに三度の勝利をあげ、斬首二千九百有余。賊は江北を犯そうと謀った。元斌・九徳は南して潁州に赴き鳳陵を護った。ひそかに應元と得功を遣わして騎兵を督させ、賊の前を扼させ、南から北へ方家集で破った。賊はそこで固始から商城へ走った。功を記録して都督僉事を加えられた。その後また新野で破り、さらに遂平で大破した。
- 熊文燦はちょうど撫を主としており、戦わずして賊が應元らを憚って多く降り、降った者もすぐには叛かなかった。文燦はこれによって賊を招撫した功を独り占めにした。その後、京師に警報があって應元らを召還したので、賊はついに憚るところがなくなった。
- 帝は初め禁軍がたびたび賊を破ったと聞いて大いに喜び、しきりに應元に都督同知を加え、銀幣・蟒服を賜っていた。ここに至って功を論じ、左都督に進め、総兵官の銜を加え、錦衣副千戸を世襲の廕とした。
許可變・胡可受の招降
- 崇禎十二年五月、張獻忠・羅汝才が再び叛いた。引き続き元斌・九徳に應元・得功の軍を監させて南征させた。應元らは南陽に馳せ至った。折しも馬光玉が浙川の吳村に屯して偽って撫を乞い、漢江を渡って獻忠に呼応しようとしていた。浙川の令の郭守邦が諸生の王作霖を遣わして、その一党の許可變・胡可受を説いて降らせた。可變は改世王、可受は安世王のことである。可變は夜に来て東闗に置かれたが、可受は光玉に押さえられて約束がまだ定まらなかった。
- 應元と得功は内郷に赴いてその背後を衝き、副将の周遇吉らが道を分けて撃った。文燦の遣わした陳洪範も到着した。八月、小黄河口に至り、參將の馬文豸らが力戦した。可受は敗れて「初め許王と降伏を約したのは私である。今、命に帰す」と叫んだので、遇吉は馬を止めてこれを受け入れた。
- 應元と得功はそのまま王家寨に進軍した。賊は南北二つの山に分屯し、木石で道を塞いだ。應元は文豸を率いてその南を攻め、得功は副将の林報國を率いてその北を攻めた。河南の兵もまた華陽闗を扼したので、賊はついに大敗した。光玉は逃げて免れた。元斌が軍に至り、檄して可變・可受の罪を免じ官を授けた。前後の首功三千人を報告した。
豐邑坪の勝利と羅山の戦死
- 楊嗣昌が襄陽で督師するに及び、元斌と應元に荊門を守らせ献陵を護らせた。崇禎十三年(1640年)七月、副将の王允成・王之綸、監軍僉事の孔貞會らとともに豐邑坪で羅汝才を大破し、斬首二千三百、生け捕り五百有余。混世王・小秦王はみな降った。当時、荊楚第一の功と称された。
- 崇禎十五年(1642年)春、羅山で賊を撃ち、力戦したが孤軍で援けがなく、ついに陣没した。贈官と恤典は制度どおりであった。
- 應元は戦上手で、陣中では多く黄得功とともにあった。應元が死んで得功の勲功はいっそう顕れたので、その名はとりわけ世に鳴り響いた。