明史卷二百六十九 列傳第一百五十七 猛如虎

猛如虎(?–1641年)。もと塞外からの降人で、榆林に家があった。驍勇果敢で戦上手、虎大威と名を並べ、崇禎年間の山西では曹文詔らに従って混世王・九條龍・高加討らを討ち、防河・援勦の功が著しかった。薊鎮中協総兵官となったが罪に坐して落職し、督師楊嗣昌に従って四川に入り、正總統として張獻忠を追った。黄陵城の戦いで左良玉の部下の兵が先に潰えて大敗し、子の先捷を失った。のち南陽に移駐し、李自成に城を破られると市街戦のすえ賊に刺されて死んだ。

年表(15件)

出自と山西での戦い

  • もと塞外からの降人で、榆林に家があった。功を積んで遊撃に至った。
  • 崇禎五年(1632年)、邢紅狼を髙平で撃ってその囲みを解いた。翌崇禎六年(1633年)、壽陽の黒山で賊を破り、姫闗鎖の軍を壊滅させた。ついで曹文詔に従って西堰・碧霞村で賊を追い、混世王を斬った。頗希牧とともに壽陽の東で賊を逐い、また陳國威・馬杰とともに來遠塞を破った。文詔に従って范村で賊を大破した際、國威が歩卒三百で夜に紅山嶺の賊を襲い、如虎・杰および虎大威・和應詔が九條龍を撃ち殺した。
  • まもなく巡撫の許鼎臣の命で文水から山に入って賊を勦し、また大威・應詔・杰とともに臯落山から東を犯す賊を勦して、ともに功があった。賊が畿南に流れ込んで山西の警報がしだいに収まると、如虎はなお鼎臣に隷属した。
  • 崇禎七年(1634年)、沁源で賊を勦し、五條龍の首を得た。如虎は驍勇果敢で戦上手であり、虎大威と名を並べた。戴君恩・吳甡が相次いで巡撫となり、ともにこれを委任した。功により參將に進んだ。その年の冬、賊が河南にあって氷を踏んで北へ渡ろうとしたので、如虎と大威が黄河のほとりでこれを扼した。
  • 崇禎八年(1635年)二月、大威・國威とともに大賊の高加討を斬り、山西の賊はことごとく平定された。甡の推薦により副總兵を加えられた。その冬、防河の功で署都督僉事を加えられた。連年にわたる防河および河南の援勦の功績はきわめて著しかった。
  • 崇禎十一年(1638年)冬、京師に警報があり、如虎は兵を督して勤王した。翌崇禎十二年(1639年)四月、薊鎮中協総兵官に抜擢された。

四川での張獻忠追撃

  • 崇禎十三年(1640年)、事に坐して落職し、辺境に送られて功を立てることとされた。督師の楊嗣昌が朝廷に請い、蜀に入るのに従わせた。
  • 十一月、監軍の萬元吉が保寧で将士を大いにもてなした。諸軍の進退が一致しないので、如虎を正總統に抜擢し、張應元を副として、軍を率いて綿州に赴かせ、諸将を分遣して要害に屯させた。元吉自身は間道から射洪に走り、蓬溪を扼して賊を待った。賊はちょうど安岳の境に屯していたが、官軍が来ると察知して夜に遁れ、内江に至った。如虎は驍騎を選んで追い、元吉と應元は安岳城下に陣して賊の帰路を扼した。
  • 十二月、張獻忠が瀘州を陥れた。その地は三面を川に阻まれ、ただ立石站だけが北に抜ける道であった。元吉は、賊が絶地に居るのだから大兵を遣わして南のその本拠を衝き、兵を傍らの要衝の玉蟾寺に伏せ、賊を追い詰めて永川に北走させ、迎え撃てば殲滅できると考えた。ところが永川知縣はすでに先に逃げており、城中には丞・簿が一、二人いるだけであった。如虎は道案内を求めたが得られず、夜は西闗の空き家に宿った。立石に至った時には賊はすでに南溪を渡って引き返し、關中に走っていた。将の賀人龍の軍は川を隔てて撃たなかったので、賊はついに成都を越えて漢川・徳陽に走り、綿河を渡って巴州に入った。

黄陵城の敗戦

  • 翌崇禎十四年(1641年)正月、嗣昌は自ら舟師を率いて雲陽に下り、諸将に陸から賊を追うよう檄した。諸将は賊の背後をことごとく追ったが、賊は折れて東に返り、帰路はすっかり空になっていてもはや遏められなかった。
  • 如虎が率いるのはわずか六百騎で、残りはみな左良玉の部下の兵であった。驕り猛って統制がきかず、通る所で焼き討ちと略奪をほしいままにした。ただ參將の劉士杰だけが勇敢で功を立てようとした。諸軍は良玉に従っていた頃は暇で戦わないことが多かったのに、如虎に隷属を改められて風雪の中を山谷に駆け回されたので、みな怨んで「左鎮を想い殺し、猛鎮に走り殺される」と歌った。当時、賀人龍の兵はすでに大いに騒いで西へ帰っており、頼れるのは如虎だけであったので、元吉は深く憂えた。
  • 賊が巴州から開縣に至り、官軍が追って黄陵城で遭遇した。夕暮れ時に雨が降り出し、諸将は疲れ果てて翌朝の戦いを請うたが、士杰は奮い立って「四十日賊を追ってようやく追いついた。撃たずに措くなど自分にはできない」と言い、戈を執って先に立った。如虎が諸軍を激励して続かせた。士杰の当たる所はたちまち打ち崩された。
  • 獻忠は高みに登って官軍を望み、後続がないのを見て、ひそかに壮騎を抜いて竹藪の谷を潜行させ、高みから大声をあげて駆け下らせた。良玉の兵がまず潰え、士杰および遊撃の郭開、如虎の子の先捷がともに戦死した。如虎は親兵を率いて力戦し、部将に抱えられて馬に乗り、包囲を破って脱出したが、旗纛と軍符をことごとく失った。そこで残兵を収めて嗣昌に従い荊州に下った。

南陽の戦死

  • 嗣昌が死ぬと、部下を率いて徳安・黄州を扼した。折しも背に疽ができて戦えず、退いて承天に屯し、まもなく南陽に移駐した。
  • 十一月、李自成が傅宗龍の兵を壊滅させ、勢いに乗じて攻めて来た。如虎は劉光祚とともに城に拠って固守し、計を用いて賊の精鋭数千を殺した。しかしまもなく城が破られた。如虎は短兵を持って市街戦を行い、大声をあげて突撃し、血が袍の袖に満ちた。唐府の門を過ぎたところで北に向かって叩頭して上恩に謝し、自ら力尽きたと称して賊に刺され死んだ。光祚および分守參議の艾毓初、南陽知縣の姚運熈もともに死んだ。唐王もまた害に遭った。

附伝・劉光祚の山西での戦い

  • 光祚は字を鴻基といい、榆林衛の人。はじめ諸生であったが棄てて祖先の廕を承け、延綏遊撃を歴任した。
  • 崇禎三年(1630年)、詔を奉じて勤王し、何可綱らとともに灤州で戦って功があり、汾州參將に遷った。
  • 崇禎五年(1632年)、遊撃の王尚義とともに賊の張有義を臨江で破った。賊が兵を返して攻めて来ると軍はことごとく壊滅し、光祚はかろうじて身一つで免れた。召喚されたがまだ発たないうちに諸将とともに臨縣を回復したので、詔してその罪を免じた。
  • 崇禎六年(1633年)、賊が石樓を犯すと、光祚は三道に分けて撃って大敗させ、隔溝飛・樸天虎ら六人を斬り、首功三百七十を得た。また臨縣・永寧でたびたび賊を破った。撲天飛らが偽って降ったので、光祚は伏兵を設けてこれを斬った。その後、魏家灣・黑茶山で賊を撃ち破った。
  • 崇禎七年(1634年)、王剛の残党を討ち破って四百余級を斬った。署都督僉事を加えられ、山西副總兵となった。崞縣で賊を破ってその城を回復した。
  • 崇禎八年(1635年)、賊の首領で活地草と号する賀宗漢が、一味の劉浩然・高加討が滅ぼされたのを見て偽って降伏を乞うたので、光祚は兵を伏せて斬った。晋中の群盗がみな絶えたので、光祚を宣府に移した。久しくして兵を率いて河南を援勦するよう命じられた。
  • 崇禎十一年(1638年)、白果園・襄城で賊を連破し、その後保定総兵官に抜擢され、なお河南の討伐に協力した。その冬、畿輔に警報があり、鎮所に馳せ帰った。

附伝・劉光祚の獄と再起

  • 大清の兵が保定に迫ったが、光祚が堅く守ったので攻めずに去った。光祚はまもなく総督の孫傳庭に従って南下した。
  • 翌崇禎十二年(1639年)二月、大清の兵が引き返して渾河に至った。水嵩が増して輜重が渡りにくかったが、諸将の王樸・曹變蛟らは顔を見合わせるばかりで攻めようとせず、光祚の怯えぶりはとりわけひどかった。視師の大学士劉宇亮がこれを弾劾し、詔して軍前で処刑せよとされた。ところが光祚がちょうど武清での勝利を報じたので、宇亮は彼を武清の獄に繋いだうえで上疏して寛大な処置を請うた。帝は怒って宇亮を罷免し、光祚を死罪と論じた。
  • 崇禎十四年(1641年)、大学士の范復粹が囚人を審査し、光祚の才幹と武勇を力説した。そこで為事官に充てて罪を負ったまま賊を処理させることとなった。光祚は廃されていた将の尤翟文らを推挙し、帝もこれに従った。
  • 当時、賊はすでに河南・襄陽を陥れ、中原の郡縣はおおむね荒廃していた。光祚の兵馬はいくらもなく、督師の丁啟睿はとりわけ怯懦であった。光祚は少しは勝ちを得たものの賊の勢いはかえって盛んになった。傅宗龍が項城で敗死すると南陽は震え上がった。光祚はたまたまその地を通りかかり、唐王に迎えられてともに城を守り、城が陥ちてついに死んだ。