出自と帰順
- 永寧宣撫司の人。天啓元年(1621年)、奢崇明が反すると、令は偽の総兵となって成都攻めに従った。令は賊に用いられたものの本意ではなかった。崇明が敗れて永寧に帰ると、令は宋武らと結んで隙をうかがい、その偽丞相の何若海を捕らえ、衆を率いて降伏した。崇明は怒って令の一家を殺し、その先祖の墓を暴いた。
- 巡撫の朱燮元が、令らは国のために家を忘れたのだから手厚く抜擢して奨励とすべきだと述べ、武とともに參將を授けられた。のちたびたび大軍に従って征討し、しきりに功があり、副總兵を加えられたがなお參將の職務を執った。のち建武遊撃に実授された。
川北の守備
- 崇禎年間、たびたび遷って副總兵となり、川北に鎮した。
- 崇禎七年(1634年)、流賊が侵入すると、総兵の張爾竒は令を先鋒とし、副将の陳一龍・武聲華を左右として員山で防がせた。令は龍潭まで追ったが一龍らが来なかったので、顔に三本の矢を受けながら賊百余級を斬って還った。賊が畧陽を犯すと令はまたこれを撃ち破り、保寧・漢中の諸要害を扼したので、秦の賊はあえて犯さなかった。
- 崇禎十年(1637年)冬、李自成らが四川の三十余州縣を陥れ、総兵の侯良柱が陣没したが、令は難を免れた。
- 楊嗣昌が督師となると、張獻忠らはことごとく興安に奔ったが、令に扼されて漢中に入れず、転じて夔州を寇した。崇禎十三年(1640年)二月、賊は瑪瑙山で大敗して岔溪・千江河に走った。令はまた副将の方國安とともに大破した。令はこのとき七十余歳であったが、馬上で五石の弩を用い、弓を放てば必ず胸を貫いたので、軍中では神弩将と呼ばれた。
柯家坪の包囲と戦死
- 獻忠が柯家坪に移った。その地は乱れた峰が入り組み、竹藪が深く道が険しかった。令は衆を率いて追いつき、部下を五隊に分けて勇を鼓し利を争わせたが、賊は多く官軍は少なく、國安は後詰めであったのに他の道から逃げ去った。令だけが深く入り込んで包囲され、切り立った坂の中に居ながらたびたび賊営を射て、弦に応じて斃れる者はきわめて多かった。しかし水が遠く士卒は渇き、天の雨に頼ってしのいだが、包囲はついに解けなかった。
- 襄陽監軍僉事の張克儉が総督の鄭崇儉に、張令は健将である、これを見捨ててどうするのか、と言った。そこで急ぎ參將の張應元・汪之鳳に八台山から進ませ、総兵の賀人龍に満月嶆から進ませた。
- 三月八日、應元らが先に到着した。令はちょうど賊と闘っており、喚声が山谷を動かしていた。應元らがこれに応じ、内外から挟撃したので賊は敗れ去った。令は一万余の賊と十三日間持ちこたえ、殺傷した数は相手を上回った。その兵はわずか五千にすぎなかった。
- 当時、巡撫の邵捷春は重慶に駐屯し、令を遣わして黄泥窪を守らせ、令と秦良玉を左右の手と頼んでいた。のち捷春が大昌に移ると、令に竹箘坪を守らせて賊の逃走を防がせた。
- 十月、獻忠の兵が大挙して至り、令は力戦したが矢に当たって死に、軍はそのまま敗れた。
附伝・汪之鳯
- 之鳳は柯家坪の囲みを解いたのち、應元とともに夔州の土地嶺を守った。部下の兵は新たに募った者が多かった。獻忠が精鋭を尽くして攻めに来ると、之鳳と應元は力戦したが、賊は兵を分けて後山から下ってその営に突入した。應元は囲みを突いて脱出し、之鳳は他の道に走って免れたが、山道を行くうちに渇き、一斗の水を飲んで倒れ、血が胸に凝って死んだ。ひと月余りして令もまた戦死した。軍中は二人の将を失って気を奪われた。