明史卷二百六十九 列傳第一百五十七 侯良柱

四川での奢崇明・安邦彦の討伐

  • 字は朝石、永寧衛の人。天啓の初め、官を累ねて四川副總兵となり、奢崇明父子を討って遵義城を回復した。また參議の趙邦清とともに奢寅の一党の安鑾を招いて降した。
  • 天啓六年(1626年)五月、李維新に代わって四川総兵官となり、永寧に鎮した。当時、崇明は敗れて水西に奔り、安邦彦と合流していた。貴州の兵がたびたび討ったが勝てなかった。
  • 崇禎二年(1629年)、総督の朱燮元が貴州総兵の許成名を遣わして赤水衛を回復させた。崇明と邦彦は十余万の衆を率いて争いに来た。成名が永寧に還ると賊は鋭く追撃した。良柱は監軍副使の劉可訓とともに出戦してやや退いたが、成名らが来援したので、賊は五峯山・桃紅壩に拠った。
  • 数日後、良柱は賊の油断に乗じ、副将の鄧玘らとともに早朝の霧をついて迫り、賊は大いに潰えた。成名も山上の喚声を聞いて出撃した。賊は鵝項嶺に奔ったが、その道は長く狭くて人馬を収容できず、良柱と玘の軍が到着して賊はまた大敗し、死者は数万人に及んだ。崇明・邦彦および邦彦の一党の偽都督莫徳がともに首を斬られ、その一党の楊作ら数千人を俘とした。積年の大賊が平定され、当時は西南の奇勝と称された。

功をめぐる争い

  • 四川巡撫の張論がその功を上奏したが、貴州の将には及んでいなかったので、成名らは怒って、邦彦と莫徳は部将の趙國璽が斬ったのであり、しかも崇明はまだ死んでいないと言った。燮元はこれを信じて朝廷に奏したので、兵部は決しかね、賞は長く行われなかった。
  • 御史の孫徴蘭が、俘囚の阿痴・楊作らを訊問したところ、みな邦彦はその場で首を授けたと言っており、貴州の兵の力でないことは明白だ、と述べた。帝はただちに俘虜を献じて宗廟に告げさせ、首を九辺に伝えさせた。
  • 四川の巡撫・巡按および御史の毛羽健はみな良柱・可訓の功を訴えて燮元を非難した。燮元は上疏して弁明し、あわせて辞任を求めた。賞はとうとう阻まれて行われなかった。良柱は燮元が自分を用いないことを恨み、互いに暴き立てて奏し合うに至り、職を解かれて取り調べを待つ身となった。
  • 久しくして御史の劉宗祥が功状を列挙して上奏し、崇禎七年(1634年)八月にようやく前功が記録され、良柱は左都督に進み、錦衣指揮僉事を世襲の廕とされた。成名らも手厚く叙された。まもなく再び四川総兵官となった。

綿州の戦死

  • 崇禎八年(1635年)夏、総督の洪承疇が大挙して賊を討ったとき、良柱に賊が四川へ入る道を扼させた。鳳縣の三江口で戦い、斬首三百七十有余。
  • 翌崇禎九年(1636年)冬、賊が漢中を犯し、瑞王が使者を遣わして援兵を乞うたので、良柱は兵を率いて救援し、他の将とともに賊を退けた。
  • 崇禎十年(1637年)四月、四川で地震が七度、地鳴りが一度あった。占いでは兵事を主るとされ、果たして賊が侵入して南江・通江を陥れた。帝は良柱と巡撫の王維章を厳しく譴責した。
  • 当時、良柱は廣元に駐屯し、諸地の兵九千有余をすべて召集したが、分けて要害を防がせたため手元に残るのは二千人にすぎなかった。賊はその勢力の弱さを知り、五月に再び川北を寇した。維章が朝廷に急を告げたが、賊はたまたま他所へ移って掠奪したので、良柱は隘路を守る兵を引き揚げて専ら廣元を守った。維章はこれを策でないとして上章して述べた。
  • 十月、李自成・過天星・混天星らが寧羌を陥れ、三道に分かれて侵入した。良柱は急いで綿州で拒み戦ったが、衆寡敵せず陣没した。賊はまっすぐ成都に迫った。維章はちょうど保寧を守っていてかえって外にあり、続けて三十余の州縣を失った。
  • 帝は大いに怒り、二人を逮捕して詔獄に下すよう命じたが、まだ良柱が死んだことを知らなかった。裁きが決すると、維章は流刑となり、良柱は官を追奪された。

附伝・子の侯天錫

  • 崇禎十三年(1640年)、良柱の子の指揮の天錫が宮門に伏して、自分は賊と不倶戴天である、私財を投じて甲冑を整え、精鋭を選び募り、父の旧将とともに一隊を引き受けて賊と血戦し、下は父の恥をすすぎ上は国恩に報いたい、と述べた。帝は深く嘉して遊撃を授け、嗣昌の軍に赴いて功を立てさせた。
  • のち嗣昌が、天錫の率いる親丁二百六十人および募集した精鋭五、六百人はみな剽悍で戦いを恐れない、と述べたので、帝はますます嘉し、さらに一階を贈った。