明史卷二百六十九 列傳第一百五十七 李卑

出自と延安での戦い

  • 字は侍平、榆林の人。千總から守備に抜擢された。天啓の初め、総督の王象乾が薊鎮に車営五つを設け、卑を都司僉書として西協後車営を統べさせた。山海闗遊撃に遷ったが、事件に連座して罷免され帰郷した。
  • 崇禎二年(1629年)、陝西巡撫の劉廣生が延慶の回賊を討つのに三道からの進兵を議し、卑と遊撃の伍維藩らに西路から入らせた。卑は精騎二百を選び、二昼夜追撃して四百里を行き、保安・寧塞に至って連破し、あわせて首功一千有余を得た。
  • ほどなく延安參將に起用された。当時、群盗が蜂起し、延安がとりわけひどかった。卑は富家灣・松樹屯で連続してこれを破った。
  • 崇禎四年(1631年)、神一元が保安を陥れた。卑は寧夏総兵の賀虎臣とともに延安を守り、賊は犯すことができなかった。まもなく孤山副總兵に抜擢された。譚雄が安塞を陥れて城に拠ったので、卑は王承恩とともに雄を撃って降伏させ、これを殺した。斬首五百三十余級。

混天猴の討伐と山西への転戦

  • 崇禎五年(1632年)春、混天猴が宜君・鄜州を陥れ、その夏に合水を攻めた。卑と參將の馬科は甘泉山まで追い、七月に延水闗でこれを破って斬首六百二十余級を得た。その地は東を黄河に限られており、賊の溺死者は数えきれなかった。科の部下の兵が混天猴を斬って献じた。
  • はじめ卑と遊撃の吳國俊らは、甘泉の橋子溝で賊の首領三人を斬っていた。まもなく固原で賊を勦し、その首領の薛仁貴ら三人を斬った。
  • 当時、陝西の賊が多く山西に流入したので、詔して卑と賀人龍にそれぞれ部下の兵千人を率いさせ、総督の張宗衡の麾下に隷属させた。ちょうど王自用が遼州を陥れていたが、官兵が来ると聞いて城を棄てて逃げた。
  • 崇禎六年(1633年)春、諸軍が入城して良民を多く殺し功を偽ったが、卑だけは厳しく部下を取り締まり、民を騒がすことがなかった。その後、陽城の郎家山で賊を破り、また艾萬年とともに南獨泉・土河村で連破し、さらに苽塸村で破った。賊が濟源の山中に入ると、巡撫の許鼎臣が卑と萬年に合同で討つよう檄を飛ばし、卑は天井關で破った。
  • 七月、臨洮総兵の曹文詔が大同に転じたので、卑にその事務を代署させ、河北の賊を協同で討たせ、都督僉事を加えた。しばしば功があった。その冬、賊がことごとく河南に走ったので、卑に援勦を命じた。

臨洮総兵と死

  • 崇禎七年(1634年)春、内郷で賊を破り、光化に馳せつけ、楚の兵とともに蓮花坪・白溝坪で賊を破った。臨洮総兵官に実授され、湖廣で賊を討った。賊は多く鄖・襄に集まっており、総理の盧象昇はまさに卑を頼りに賊を処理しようとしていたが、六月、任地で死んだ。
  • 卑は軍規をよく保ち、行く先々で軍民が安んじた。人となりは度量があり、不意の事態にあたっても常と変わらず落ち着いていた。右都督を贈られ、祭葬を賜った。