出自と山西での転戦
- 米脂の人。武學生から従軍し、功を積んで神木參將に至った。
- 崇禎四年(1631年)、曹文詔に従って河曲を回復した。㸃燈子が山西に入ると、萬年は文詔に従い、桑落鎮・花地窊・霧露山で連続してこれを破った。この戦いで都司の王世虎、守備の姚進忠が戦死した。賊は退いて石樓の康家山に屯した。ここは西に黄河を距てること三十里である。綏徳知州の周士竒と守備の孫守法が含峪に兵を伏せ、河を渡って襲撃しこれを殺した。
- 崇禎五年(1632年)、參政の樊一蘅に従って不沾泥を討ち平らげた。山西が急を告げると文詔に隷して東へ討ち、李卑とともに一月のうちに五度の勝利を奏上した。また賀人龍とともに八大王・掃地王の兵を破った。
- 翌崇禎六年(1633年)、賊が東へ逃れようとしたので、延家山・亢義村・賈塞村で連破し、副總兵に抜擢された。
山西の土寇の処断
- そもそも山西が流賊に荒らされると、土地の賊もその隙に乗じて起こった。三闗の王剛、孝義の通天柱、臨縣の王之臣がいずれも城邑を破壊した。のちに賊の勢いが衰えると相次いで帰順したが、ひそかに党を結んだまま解散しなかった。巡撫の戴君恩は着任したばかりで、これを誅殺しようと謀った。
- 崇禎七年(1634年)正月の迎春の日、王剛を召して宴席で殺し、あわせて通天柱を別の場所で殺した。萬年もまた王豹五とその一味の領兵王を捕らえて殺し、翻山動・姫闗鎻・掌世王を生け捕りにして京師に俘虜を献じた。これで晋中の大盗はおおむね平定された。豹五とは王之臣のことである。
- 君恩が降人を殺したことを論難する者があったが、給事中の張第元が、諸賊の蹂躙のむごさを力説し、萬年の功を記録するよう請うた。萬年はたまたま病にかかって帰郷した。まもなく署都督僉事を加えられた。
崇禎八年の上疏
- 崇禎八年(1635年)二月、上疏して次のように述べた。剣を仗って従軍すること七年、府谷を回復し、孤山の囲みを解き、清水の軍を救い、甫木𤓰など十一の営堡を救い、髙山に転戦し、河曲に伏兵を置いた。有馬鎮・虎頭巖・石臺山・西川で勝ち、平陽・汾州・太原で戦い、臨縣および虒亭驛を回復し、大小数十戦を経て精力を使い果たした。ともに事にあたった李卑はにわかに世を去り、自分も病勢は衰える一方だが、なお冀北で力戦した。また王剛・豹五・領兵王・通天柱を撫勦して賊一万三千余人を解散させた。恩を蒙って養病を許されたが、督臣洪承疇の檄がまた到来したので、病をおして道に上らざるを得ない。
- 上疏はさらに続けて、賊を滅ぼす方法は勦と撫の二つに尽きるが、今はそのどちらも機宜に合っていないと論じた。まず大々的に勦するべきである。賊は数が多いことが患いなのではなく、逃げることが患いなのだ。重なりあう山々がすべて賊の巣窟で、兵が到着する前に賊が先に逃げてしまう。滅ぼしにくい原因は兵が少ないことにある。当局も兵が少ないことを知らぬわけではないが、兵糧が足りないので間に合わせの策をとり、日を引き月を延ばして今日に至り、多く餉を工面し多く兵を置いても、もはや救えなくなっている。賊衆の多寡を計って必要な兵数と餉の額を見積もり、足りると判断してから地の利を審らかにし、正兵・奇兵・伏兵・間諜を用い、あるいは首尾を撃ちあるいは左右を衝けば、即座に殲滅できないはずがない。
- 次善の策は堅壁清野の法である。賊を死地に追い込んでから撫を語るべきだ。賊の群れは妻子を引き連れ、城柵も輜重も持たず、朝に秦、暮れに楚と流れて中原の地に食を求め、略奪で生きている。付近の村落を城郭の中に移し、精兵と大器を蓄えて待てば、賊の衣食はたちまち尽き、生きる術が絶えて、鳥が驚き鼠が逃げるように散る。そこで精鋭を選んで要害に拠って撃つ。あるいは陛下の生を好む御心を体して首謀者だけを誅し、脅されて従った者を赦せば、仁を傷つけず威を損なわない。これこそ撫と勦の良策である。
- 帝はこれを深く嘉賞し、担当官庁に下して議して実行させたが、結局その策は用いられなかった。
襄樂の戦死
- まもなく孤山副總兵を授けられ、平涼を守った。当時、総督の洪承疇は六月までに賊を滅ぼせという期限に迫られて、急いで進撃させた。諸将は賊が多く兵が少ないのを見て、みな内心かなわぬと思ったが、勢いは止められなかった。
- 萬年および副将の劉成功・栁國鎮、遊撃の王錫命が兵三千を合わせ、六月十四日に寧州の襄樂に至って賊と大戦し、数百を斬首した。ところが伏兵が突然起こって幾重にも包囲した。萬年と國鎮は支えきれずともに戦死し、成功と錫命は重傷を負って帰った。士卒の死者は千余人。事が朝廷に聞こえ、贈官と恤典が制度どおりに行われた。