明史卷二百六十八 列傳第一百五十六 黄得功

黄得功(号は虎山、?–1645年)。開原衛の人で、先祖は合肥から移った。少年のとき母の酒を飲み尽くし、その償いにと兵にまぎれて首二級を斬って賞金を持ち帰ったという。遼東の親軍から身を起こし、崇禎年間に張献忠らとの戦いで功を重ねて靖南伯に封ぜられ、福王が江南で立つと侯に進んで劉良佐・劉澤清・高傑とともに四鎮の一となった。高傑の土橋襲撃を受けながら史可法の調停で堪え、左夢庚の東下を銅陵で破った。大清の兵が長江を渡り、逃げてきた福王を迎えたが、劉良佐の寝返りののち流れ矢を喉に受け、自ら矢で喉を刺して死んだ。軍規が厳しく、廬州・桐城・定遠に生祠が建てられ、軍中では「黄闖子」と呼ばれた。

年表(7件)

出自と若年

  • 黄得功は号を虎山といい、開原衛の人。先祖は合肥から移ってきた。早くに父を失い、母の徐氏と暮らした。若くして並外れた気概をもち、胆力と知略が人にまさっていた。
  • 十二歳のとき、母が醸した酒ができあがったのを盗み飲みして飲み尽くした。母が叱ると、笑って「償うのは簡単です」と言った。当時は遼東の情勢が急だったので、得功は刀を持って兵の列にまぎれ込み、出撃して首二級を斬り、賞として白金五十両を得て帰り、母に捧げて「これで酒を償います」と言った。
  • これによって経略のもとの親軍に属し、功を重ねて遊撃に至った。崇禎九年(1636年)、副総兵に昇り、京衛営を分管した。

賊との戦い

  • 崇禎十一年(1638年)、禁軍を率いて総督の熊文燦に従い、舞陽で賊を撃ち、光州・固始のあいだの激戦で第一の功をあげた。八月、また馬光玉を淅川の呉村・王家寨で撃って大破した。詔により太子太師を加えられ、総兵の銜を署せられた。
  • 十三年(1640年)、太監の盧九徳に従って板石畈で賊を破り、賊の革裏眼ら五営が降伏した。
  • 十四年(1641年)、総兵として王憲とともに鳳陽・泗州の陵を分けて守り、得功は定遠に駐屯した。張献忠が桐城を攻め、営将の廖応登を脅して城下に連れてきて降伏を誘った。得功は劉良佐と兵を合わせて鮑家嶺で撃ち、賊は敗れて逃げた。潜山まで追撃し、賊将の闖世王・馬武・三鷂子・王興国を捕らえて斬った。三鷂子は献忠の養子で最も驍勇と称された者である。得功は矢で顔を傷つけられたが、癒えるとみずから奮い立ち、賊と十余日にわたって転戦して、殺傷した数はひとり群を抜いていた。
  • 翌十五年(1642年)、廬州へ鎮を移した。十七年(1644年)、靖南伯に封ぜられた。

四鎮の一と高傑との確執

  • 福王が江南で立つと侯に進封され、まもなく劉良佐・劉澤清・高傑とともに四鎮とされた。
  • はじめ督輔の史可法は、高傑が驕慢で制しがたいことを心配し、得功を儀真に置いてひそかに牽制させた。
  • ちょうど登萊総兵の黄蜚が任地へ赴くことになった。黄蜚は得功と同姓のよしみで兄弟と称しており、書を送って非常の備えの兵を請うた。得功は騎兵三百を率いて揚州から高郵へ迎えに向かった。高傑の副将の胡茂禎がこれを高傑に急報した。高傑はもとより得功を忌み、また自分を図るのではないかと疑って、精鋭を道中に伏せて迎撃した。
  • 得功は土橋まで来て食事をとろうとしたとき、伏兵が不意に起こった。馬に乗って鉄鞭を振るったが、矢が雨のように集まり、馬が倒れたので他の騎馬に乗り換えて駆けた。槊を振るって直進してくる驍騎がいたが、得功は大声をあげて反撃し、その槊を脇に挟んで打ちすえ、人馬ともに砕いた。さらに数十人を殺し、崩れた土塀の中に跳び込んで雷のような叫び声をあげたので、追う者は近づけなかった。そのまま疾駆して大軍のもとに至り、難を免れた。
  • 戦っているあいだに高傑はひそかに兵を出して儀真を衝いたので、得功の兵はかなりの損害を受け、同行した三百騎はすべて戦死した。得功は朝廷に訴え、高傑と一死を決して戦いたいと願った。史可法は監軍の万元吉に和解させようとしたが、聞き入れなかった。
  • ちょうど得功が母の喪に遭ったので、可法は弔問に来て「土橋の一件は、賢愚を問わず誰もが高傑の不義と知っている。今、将軍が国のために激怒を捨て、非を高の側に帰させれば、将軍は天下に大きな名声を得ることになる」と語った。得功はいくらか態度を和らげたが、殺され失われた者が多かったことをどうしても恨んだ。可法は高傑に馬を償わせ、さらに千金を出して母の葬儀の香典とさせたので、得功はやむなくこれを聞き入れた。
  • 翌年、高傑が河南へ向かって中原を取ろうとしたので、詔により得功は劉良佐とともに邳州・徐州を守った。高傑が死ぬと得功は儀真に戻った。高傑の家族と将士の妻子はなお揚州に留まっていたので、得功はこれを襲おうと謀った。朝廷は急ぎ盧九徳を派遣して止めさせ、得功はそのまま廬州へ鎮を移した。

左夢庚の討伐と最期

  • 四月、左良玉が「君側を清める」と称して東下し、九江に至って軍中で病死した。その子の左夢庚が立ったので、得功に上江へ向かって防がせ、荻港に駐屯した。得功は銅陵で夢庚を破ってその包囲を解いた。命により家族を太平に移し、ひたすら賊に当たった。功を論じて左柱国を加えられた。
  • そのころ大清の兵はすでに長江を渡り、福王が逃げたと知って兵を分けて太平を襲った。得功はちょうど兵をまとめて蕪湖に屯していたが、福王がひそかにその陣営へ入って来た。得功は驚いて泣き、「陛下が京城を死守されれば臣らもなお力を尽くせましたのに、なにゆえ奸人の言を聞いてあわただしくここまで来られたのですか。しかも臣は今まさに敵と対しております。どうして御駕にお供できましょう」と言った。王が「卿のほかに頼れる者はいない」と言うと、得功は泣いて「死をもってお仕えします」と言った。
  • 得功は荻港の戦いで腕を負傷し、あやうく落ちそうであったので、葛の衣を着て帛で腕を吊り、刀を佩いて小舟に座り、麾下の八総兵に支度をさせて前へ進み敵を迎えさせた。ところが劉良佐はすでに先に降っており、岸の上から大声で降伏を招いた。得功は怒って「貴様は降ったのか」と叱った。そのとき飛んできた矢がその喉のやや左に当たった。得功はもはやなすすべなしと悟り、刀を投げ捨て、抜き取った矢を拾って喉を刺して死んだ。その妻はこれを聞いて自ら首を吊り、総兵の翁之琪は長江に身を投げて死んだ。中軍の田雄はそのまま福王を脅して降った。

人となり

  • 得功は粗暴で文義を解さなかった。江南で福王が立った当初、詔書の指図の多くが小人どもから出ていたので、得功は詔の紙を受け取ると使者の前で罵って引き裂くこともあった。しかし忠義は天性から出ており、国事について諫める者があれば、たちどころに自分を曲げて改めた。
  • 北から来た太子の真偽をめぐる獄では、得功は上疏して争い、「東宮が先帝の子を騙るとは限りません。仮に本当の御子であっても、まったく証明のないまま皆が付和雷同するようなことがあってはなりません。臣が恐れますのは、朝廷の諸臣に諂い従う者が多く、面と向かって抗する者が少ないことです。たとえはっきり見分けがついても、あえて抗弁して禍を招こうとはしないでしょう」と述べた。当時、太子の真偽を誰も決しかねていたが、得功の忠憤は阿ることがなく、このようであった。
  • 得功は戦うたびに酒を数斗飲み、酔えばますます気が激しくなった。好んで鉄鞭を持って戦い、鞭は血に漬かって手首に貼りつき、水で濡らしてようやく離れるほどであった。軍中では「黄闖子」と呼ばれた。
  • はじめは副将として大将に従って功名を立て、いまだ一度も大敵に当たったことがなかった。一鎮を専らにして侯に封ぜられてから一年余りしか経たぬうちに、南北に転戦し、主君は逃げ将は潰え、その力を用いる場もないまま、手をつかねて死に、国とともに滅びた。
  • その軍は行軍の規律が厳しく、部下があえて犯すことはなかったので、行く先々で人はその徳に感じ、廬州・桐城・定遠にはいずれも生祠が建てられた。儀真の方山にある母の墓のかたわらに葬られた。

史論

  • 賛にいう。曹文詔らは驍猛の資質をそなえ、向かうところ敵を打ち破り、いずれも万人の敵と称された。しかし天命がすでに傾いていたため、良将も倒れ挫かれた。この三人は忠勇が最も著しく、殉死のさまも最も壮烈であったので、とくに別に一篇を立てて記した。