出自と初期の経歴
- 周遇吉は錦州衛の人。若くから勇力があり、生き物を射るのを好んだ。のち行伍に入り、戦えばいつも先登し、功を積んで京営遊撃となった。
- 京営の将には勲戚や中官の子弟が多く、遇吉が粗野なのを見て軽んじた。遇吉は「あなたがたは皆おぼっちゃんだ。どうして大敵に当たれよう。無事のときに胆勇を鍛えて後日に備えず、ただ俸禄を無駄にしているだけではないか」と言った。同輩は皆これを目で見て笑った。
- 崇禎九年(1636年)、都城が兵に囲まれたとき、尚書の張鳳翼に従って何度も血戦して功があり、二階級進んで前鋒営副将となった。
- 翌十年(1637年)の冬、孫応元らに従って河南で賊を討ち、光山・固始で戦っていずれも大勝した。十一年(1638年)に凱旋し、官階を進められ褒賞を受けた。
- 翌十二年(1639年)の秋、再び出て賊を討ち、淅川で胡可受を破ってその部隊全体を降伏させた。楊嗣昌が襄陽に出師すると、遇吉は中官の劉元斌に従って合流した。
- 張献忠が房県に近づこうとしたとき、嗣昌はきっと鄖灘の渡しをうかがうだろうと見て、遇吉を派遣して槐樹関を守らせ、張一竜を光化に屯させたので、賊はあえて侵さなかった。
- 十二月、献忠は興安で敗れて竹山・竹渓へ逃げようとした。遇吉はまた嗣昌の命令で化石街・草店に至ってその要害を押さえたので、賊はこれ以後ことごとく蜀に入った。遇吉は劉元斌に従って荊門に駐屯し、もっぱら献陵を守った。
- 翌十三年(1640年)、孫応元らとともに羅汝才を豊邑坪で大破した。さらにその翌十四年(1641年)、黄得功とともに鳳陽で賊を追撃して破った。
- まもなく軍を返し、別の賊の李青山を寿張で破り、東平まで追ってほとんど全滅させ、青山は降伏した。たびたび加官されて太子少保・左都督となった。
山西総兵と寧武の死守
- 十五年(1642年)の冬、山西総兵官の許定国が罪を得て死罪となり、遇吉がこれに代わった。着任すると老弱を汰り、甲冑・武器を整え、勇敢な者を鍛えたので、一軍はとりわけ精強となった。
- 翌十六年(1643年)十二月、李自成が陝西全域を陥れ、山西を侵そうとした。遇吉は、沿河千余里はどこでも賊が渡れるとして、兵を分けてその上流を押さえ、下流の蒲坂は巡撫の蔡懋徳に任せ、朝廷に援軍を請うた。朝廷は副将の熊通に二千人を率いて赴かせた。
- 十七年(1644年)正月、遇吉は熊通に黄河の守りを命じた。ところが平陽の守将の陳尚智はすでに使者を送って賊を迎え入れており、熊通に鎮へ戻って遇吉に降伏を説くよう勧めた。遇吉は叱って「私は国の厚恩を受けている。どうしてお前の反逆に従おうか。しかもお前は二千の兵を統べながら賊を殺せず、かえって説客となるのか」と言い、その場で斬り、首を京師へ送った。
- 二月七日に至って太原が陥ち、蔡懋徳は死んだ。賊はそのまま忻州を陥れ、代州を包囲した。遇吉はさきに代州にあってその北進を防いでいたので、城に拠って固く守り、ひそかに兵を出して奮戦し、連日にわたって数え切れぬほどの賊を殺した。
- しかし食糧が尽き援軍も絶えたので、寧武まで退いて守った。賊も追って至り、「五日のうちに降らねば城を屠る」と大声で呼ばわった。遇吉は四面から大砲を放って賊一万人を殺した。火薬が尽きかけ、外の包囲がいよいよ急になると、ある者が甘言で賊を欺こうと請うたが、遇吉は怒って「お前たちは何と臆病か。今もし勝てば一軍は皆忠義の士だ。持ちこたえられぬのなら、私を縛って賊に差し出せ」と言った。
- そこで城内に伏兵を置き、弱兵を出して賊を城内へ誘い込み、すばやく城門の閘を下ろして数千人を殺した。賊は砲で城を攻め、崩れては修復することが再三に及び、賊の驍将四人を傷つけた。自成は恐れて退こうとしたが、その将が「我が兵は彼の百倍。十で一を攻め、代わる代わる進めば勝てぬはずがない」と言い、自成はこれに従った。前隊が死ねば後隊が続き、官軍は力尽きて城はついに陥ちた。
- 遇吉は市街戦を戦い、馬がつまずくと徒歩で跳びかかり、手ずから数十人を打ち殺した。身に受けた矢ははりねずみのようであったが、ついに賊に捕らえられた。大声で罵って屈しなかったので、賊は高い竿に吊るして群射して殺し、さらにその肉を切り刻んだ。
- 城中の士民は遇吉の忠義に感じ、市街戦で殺した賊は数えきれぬほどであった。その家の若者は先に遇吉に従って関を出てほぼ全員が死んでいた。夫人の劉氏はもとより勇壮で、婦女数十人を率いて山頂の役所に拠り、屋根に登って矢を射た。一矢ごとに賊一人を斃したので賊は近づけず、火を放って焼いたため一家は皆死んだ。
- 自成は兵を集めて謀り、「寧武は破ったが我が将士の死傷は多い。ここから京師に達するまで大同・陽和・宣府・居庸を経るが、いずれも重兵がある。もしすべて寧武のようであれば、我が部下に生き残る者はあるまい。秦に還って休息し、後日を図る方がよい」と言い、日を定めて逃げようとした。
- ところが大同総兵の姜瓖の降伏の表が届き、自成は大いに喜んだ。その使者を宴でもてなしているところへ宣府総兵の王承䕃の表も届いたので、自成はますます喜び、ついに長駆する策を決した。大同・宣府を経て居庸に至ると、太監の杜之秩と総兵の唐通がまた門を開いて迎え入れ、京師はついに保たれなくなった。
- 賊はいつも人に「他の鎮にもう一人周総兵がいたら、我らはどうしてここまで来られただろうか」と語ったという。福王の時に太保を贈られ、忠武と諡され、旌忠祠に列祀された。