経歴と殉節
- 字は若魯、如臯の人。崇禎七年(1634年)進士、文震孟の門から出た。名節をもって自ら砥き、義烏知縣に除せられた。母の喪で帰り、哀しみに毀れて骨立ち、喪を終えるまで蔬食し柩の傍らに寝た。廣東恵來縣に補せられ、清望によって徴されて吏部文選主事を授かり、考功員外郎に進んだ。
- 賊が都城に迫ると、同僚と約して私財を出し士を饗して死守の計とした。城が陥ち、賊が百官に名を報ぜよと令すると、直は「身は殺せても志は奪えぬ」と言った。
- 帝が南へ狩したと伝える者があり、直は往いて従おうとしたが、賊騎が道を塞いでいるのを見て、門を出ては返り「四方は兵戈、御駕はどこへ往かれよう。国が乱れても匡すことができず、君が危うくても済うことができぬ。我は何のために生きようか」と言った。
- やがて帝の崩御を知って一慟してほとんど絶命しかけた。客が七十の老父を理由に思い留まらせようとしたが、直は「死ななければ辱めが生みの親にまで及ぶ」と言い、絶命の詩六章を賦し、戸を閉ざして自経した。翌朝見ると、その気色は生けるがごとくであった。
- 太僕卿を贈られ、諡は忠節。本朝は諡忠愍を賜った。
- 直に族子の徳溥という者があり、南方にあって莊烈帝の崩御を聞いて数日大哭し、揚州が陥ちるとまた数日哭し、独り坐るたびに慟哭した。食事には必ず崇禎銭一枚を机上に置き、祭ってから食べ、食べ終わるとまた哭した。また両腕に「生きては明の臣、死しては明の鬼」と刺した。事が発覚して西市で死んだ。