明史卷二百六十六 列傳第一百五十四 成徳

温體仁との衝突と戍謫

  • 字は元升、霍州の人。母方の叔父に依って懐柔に籍を置いた。崇禎四年(1631年)進士、滋陽知縣に除せられた。性は剛介、清廉な操守は俗に絶し、悪を憎むこと仇のようであった。
  • 文震孟が入都したとき、徳は郊外に迎えて弟子の礼を執り、言葉が温體仁を刺した。體仁は聞いて恨んだ。
  • 兗州知府が餉額を増そうとして徳は固く争い、またかつてその手先の吏を捕らえて処罰したので、知府は怒って御史の禹好善に讒言した。好善は體仁の食客であり、徳を貪虐と誣って逮えて京に入れた。滋陽の民は闕に詣って冤を訴え、震孟も内閣にあって枉げられていると称えた。
  • 徳は護送の道中で疏を具えて體仁の罪を極論したが、震孟はすでに體仁に押しのけられて去っていた。好善は再び徳を弾劾し、その疏は震孟の手から出たものだと言ったが、帝は追及しなかった。
  • 徳の母の張氏は長安街で體仁を待ち伏せ、輿を巡って大罵し、瓦礫を拾って投げつけた。體仁は憤って疏して朝廷に聞かせ、五城御史に詔して駆逐させ、徳を鎮撫の獄に移して拷問し、午門外で杖六十、辺境に戍せしめ、贓六千有余を科した。體仁には校尉五十人を給して出入りを護らせた。
  • 徳は戍所に居ること七年、御史の詹兆恒の推薦で如臯知縣に起用され、まもなく武庫主事に擢かれた。母が老いていることを理由に辞したが許されず、赴任した。

仗節死義の疏と殉節

  • 着任して上言した――近年、中外に事変が多いのに、官にある者は爵禄に心を迷わせ、廉恥の道は喪われている。陛下が御位に即かれて十七年、なにゆえ節に仗り義に死ぬ者がかくも寥々たるのか。宋臣の張栻に「節に仗り義に死ぬ臣は、顔を犯して諫諍する者の中に求めるべし」との言がある。そもそも顔を犯して諫諍することの何が難しかろう、朝廷がそれを養うかどうかにあるだけである。その住まう里を表彰するのは忠臣孝子を生前に伸ばすためであり、その井疆を区別するのは乱臣賊子をまだ死なぬうちに誅するためである。もし敵に死んだ者に功がないというなら、敵に媚びた者にも罪はないことになる。賊に死んだ者を褒揚することが急でなければ、賊に従う者は平然として畏れを知らなくなる。
  • まもなく城が破れた。帝の所在が分からず庁事を彷徨したのち午門に趨り至り、兵部尚書の張縉彦が賊のところから出て来るのを見て、徳は頭でその胸を突き、かつ罵った。
  • にわかに帝の崩御を聞き、痛哭して鶏と酒を持って東華門に奔り、茶棚の下で梓宮に奠し、地に頭を打ちつけて血を流した。賊が刃を露わにして脅したが動じなかった。
  • 奠を終えて帰宅した。二十余歳でまだ嫁いでいない妹がいた。徳が顧みて「我が死ねばお前は誰を頼る」と言うと、妹は「兄が死ぬなら妹は先に参ります」と答えた。徳は善しとし、哭してその縊れるのを見届け、入って母に別れを告げ、哀を尽くして哭し、出て自縊した。母は子女がみな死んだのを見て、やはり縊れて死んだ。
  • これより先、懐柔の城が破れたとき徳の父の文桂が害に遭い、家属はことごとく没し、妻の劉氏は京にあって徳の贓の徴収が急であったため憂え悸えて死んでいた。ここに至って一門ことごとく難に死んだ。ただ幼子だけは先に友人の家に預けてあって生き残った。
  • 徳に光禄卿を贈り、諡は忠毅。本朝は諡介愍を賜った。