魏忠賢に屈せず
- 施邦曜は字を爾韜といい、餘姚の人。萬厯四十一年(1613年)の進士。吏となるのを楽しまず、順天府學教授に改まり、國子博士・工部營繕主事を歴て員外郎に進んだ。
- 魏忠賢が三殿の工を興し、諸曹の郎はその門に奔走したが、邦曜は往かなかった。忠賢はこれを困らせようとして北堂を拆かせ五日の期限を切ったが、たまたま大風が屋を吹き飛ばしたので譙責を免れた。また獣吻を作らせたが、嘉靖年間の製に倣うのに調べるすべがなかった。夢に神が告げ、地を掘って吻を得たところ嘉靖の旧物であった。忠賢は難詰できなかった。
漳州知府と海盗の平定
- 屯田郎中に遷り、やや遷って漳州知府。属県の奸盗の名をことごとく把握し、事が起こるたびに必ず捕らえたので、郡中は神と驚いた。盗の劉香・李魁竒が海上に横行したが、邦曜は香の母を縛って誘い出し、香は禽らえられた。魁竒は鄭芝龍の先例を引いて撫を請うたが、邦曜は巡撫の鄒維璉に言って討ち平げた。
- 福建副使・左参政、四川按察使、福建左布政使に遷り、いずれも評判が高かった。ある者が朱墨竹を贈ったとき、傍らにいた姉の子が受けるよう勧めると「いけない。私が受ければ彼はそれに乗じて私を試すことができ、私は欲すべきものの門を開いて見せることになる」と言った。性として山水を好んだが、峨嵋に遊ぶよう勧める者に「上官が遊覧すれば属吏の支応を煩わせ、小民の物力をどれほど傷つけるか」と言った。その身を潔くし民を愛することはこのようであった。
黄道周の獄と最期
- 両京の光禄寺卿を歴て通政使に改まった。黄道周がすでに謫官となったうえ再び逮えられて詔獄に下されたとき、國子生の涂仲吉が上書して訴えた。邦曜は封進せず、その副封に大書して「書は上さずともよいが、論は存せずにおけぬ」と署した。仲吉が邦曜を弾劾したので邦曜は副封を上げたが、帝はその署語を見て怒り、仲吉を獄に下し邦曜の官を奪った。
- 一年余りして南京通政使に起こされ、入都して陛見し、学術・吏治・用兵・財賦の四事を陳べ、帝は容を改めて納れた。都を出て三日、中使に召し還され「南京は事がない。ここに留まって朕のために力を尽くせ」と言われた。吏部が刑部右侍郎に推したが、帝は「邦曜は清らかで執がある」として左副都御史とした。崇禎十六年十二月(1643年)のことである。
- 翌年、賊が近郊に迫り、邦曜は兵部尚書の張縉彦に、天下の兵に檄して勤王させるよう語ったが、縉彦は怠って省みず、邦曜は太息して去った。城が陥ちると長安門に趨り、帝の崩を聞いて慟哭し「君は社稷に殉じられた。臣子が生を偸めようか」と言い、ただちに帯を解いて自経した。僕が救って蘇生すると、恨んで「この小僧が私を誤らせた」と言った。賊が街に満ちて邸に還れず、門を望んで縊れようとしたがそのたびに住民に追い払われた。そこで家人に命じて信石(砒石)と焼酒を買わせ、途中でこれを服し、血が迸り裂けて卒した。
学問と内行
- 邦曜は若くして王守仁の学を好み、理学・文章・経済の三つにその書を分けて読んだ。義を慕うことに窮まりがなかった。
- 魯時生は同じ里の同年生で、庶吉士となって京師で歿したが、邦曜は自ら含斂を執り行い、娘をその子に嫁がせた。かつて一人の婢を買って掃除をさせたところ、東の隅に来て箒を捧げたまま凝視して泣いた。怪しんで問うと「ここは亡父の御史の宅でございます。かつて環を落としたこの地で、思わず悲しくなりました」と言った。邦曜はただちに嫁資を分け、士人を択んでその者を嫁がせた。その内行の篤いことはこのようであった。
- 太子少保・左都御史を贈られ忠介と諡された。本朝は忠愍を賜諡した。