出自と歴官
- 孟兆祥は字を允吉といい、山西澤州の人。代々交河に籍を置いた。郷に挙がってから九たび会試に赴き、天啓二年(1622年)にはじめて及第し、大理左評事に除せられた。
- 崇禎の初め、吏部稽勲主事に遷り、文選員外郎を歴た。門生が選を謁して善い土地を請うたが、兆祥が正色して拒むと、その人は悚然として退いた。稽勲郎中に進み考功を歴たが、権要に忤って行人司副に貶された。やや遷って光禄丞、少卿に進み、左通政・太僕卿を歴て、まもなく通政使に進み、刑部右侍郎を拝した。
一家四人の殉節
- 賊が都城に迫り、兆祥は正陽門を分守した。襄城伯の李國禎が京営の軍を統べていたが、月餉を出し渋って与えず、士に固い意志がなかった。城が陥ちると兆祥は「社稷はすでに覆った。私はどこへ行こうか」と言い、門下で自経した。
- 長子の章明は字を綱宜といい、進士に成ったばかりであった。兆祥が手を振って「私は死ぬ。お前は去ってよい」と言うと、「君父は大節です。君が亡び父が死ぬのに、私がどうして生きられましょう」と答え、父のかたわらで繯に投じた。
- 兆祥の妻の吕氏と章明の妻の王氏は向かい合って哭いていたが、やがて「あの父子は忠に死んだ。私たち二人だけ節に死なずにおれようか」と言い、ともに自縊した。
- 兆祥は刑部尚書を贈られ忠貞と諡し、章明は河南道御史を贈られ節愍と諡された。本朝は兆祥に忠靖、章明に貞孝を賜諡した。