明史卷二百六十四 列傳第一百五十二 焦源溥

移宮の議

  • 焦源溥は字を涵一といい、三原の人。萬厯四十一年(1613年)の進士。沙河・濬の二県を知り、考課最上で御史に召された。
  • 熹宗が嗣位して移宮の議が起こり、刑部尚書の黄克纘が宝を盗んだ諸奄を寛にするよう請うたのを、源溥が折って論じた。
  • 光宗は神宗の元子である。元子のために忠であろうとする者は、福藩のために動く者を忠とはしない。孝端と孝靖は神宗の后である。二后のために忠であろうとする者は、鄭貴妃のために動く者を忠とはしない。孝元と孝和は光宗の后である。二后のために忠であろうとする者は、李選侍のために動く者を忠とはしない。
  • 貴妃の三十年来の心事は誰もが知っている。張差が梃を持ち込んだとき危機は呼吸の間にあり、今なお言うに忍びない。まして先帝御極の初めに、突然皇祖の封后の命が伝えられ、封を請うても得られぬまま冶容が進んだ。張差の梃が中らなければ女優の惑を投じ、崔文昇の薬が速やかでなければ李可灼の丸で促した。痛ましいことに、先帝は進御の事を諱んで言おうとせず、遂に晴れぬ冤を蒙るのに甘んじられた。
  • 今かりに貴妃を厚く待って終始恩礼を尽くすとしても、鄭養性の都督は奪わずにおけず、崔文昇は磔にせずにおけない。まったく問わずに置けば、父を忘れるに近くはないか。
  • 李選侍は一宮人にすぎず貴妃の比ではない。聖諭にあるように陛下を煖閣で阻み、陛下を挟んで垂簾しようとし、聖母を凌虐した有様は、臣子として言うに忍びないものがある。今かりに選侍のために憐れみを乞うとしても、求めうるのは前の咎を曲げて宥し優典に従うことまでで、移宮の始末を抹殺することはできず、宝を盗んだ諸奄を寛宥することもできない。諸奄をまったく問わずに置けば、母を忘れるに近くはないか。
  • 疏が上ると挙朝が寒懼した。

大同巡撫と殉節

  • 天啓二年(1622年)、憂により帰り、服を闋えて還朝した。出て真定諸府を按じ、例により鳳陽兵備副使に転じた。そのころ崔文昇が両淮に出鎮して源溥に甘心しようとしたので、病と称して帰った。
  • 崇禎二年(1629年)、故官に起こされ河東道を分巡し、寧武参政に遷って平寇の功があり、そのまま山西按察使に遷った。七年(1634年)、右僉都御史に擢でられ大同を巡撫した。当時、辺事は日ごとに険しく、兵は伍を欠き、餉も久しく乏しく、年ごとに饑えが重なって民は馬糞を淘って食べていた。源溥は蠲免・振済と増餉を請うたが当事者は応じられず、一年余りで自ら劾して去ることを求め、遂に罷帰した。
  • 十六年冬(1643年)、李自成が関中を陥れ、従兄の源清とともに捕らえられ、金を出せと責め立てられた。源溥は目を怒らせて大罵し、賊はその舌を抜いて支解した。
  • 源清は字を湛一といい、進士から宣府巡撫を歴官した。七年秋(1634年)、萬全左衛の失守に坐して官を奪われ謫戍となり、久しくして釈されて還り、年は七十であった。このとき節に抗して食わず、七日で死んだ。