明史卷二百六十四 列傳第一百五十二 王家禎

甘肅巡撫

  • 王家禎は長垣の人。萬厯三十五年(1607年)の進士。天啓年間に左僉都御史を歴官し甘肅を巡撫した。松山の部長である伊勒敦・達春が西の辺を擾すこと二十余年に及んでいたが、家禎が着任してから三度犯され三度これを却け、前後で斬首五百四十。戸部右侍郎に擢でられ左に転じた。
  • 崇禎元年(1628年)に部事を摂した。辺餉が時に発せられず、秋に遼東の兵が鼓譟して巡撫の畢自肅が自経して死んだので、帝は大いに怒って家禎を削籍した。のち甘肅の功を叙してその冠帯を復した。

四省軍務総理

  • 九年七月(1636年)、京師が兵を被り、兵部左侍郎に起こされ、まもなく本官のまま右僉都御史を兼ね、河南・湖廣・山西・陝西・四川・江北の軍務を総理して、盧象昇に代わって賊を討った。ちょうど河南巡撫の陳必謙が罷められたので、これも兼ねさせた。
  • 将士を督して南陽で馬進忠らを会剿し、また兵を遣って襄陽を救い、牌樓閣で大戦した。その冬、家丁が鼓譟して開封の西門を焼いた。家禎は夜に外から帰り、慰諭して犒賞し、明け方に南陽へ発たせて土寇の楊四を討たせて去らせた。楊四は舞陽の劇盗である。初め四とその党の郭三海・侯馭民らは必謙に降ったが、このとき再び叛いたので、家禎はこの派遣を行った。のち南陽同知の萬年策と監紀推官の湯開遠、諸将の左良玉・牟文綬らが続けて破り、四は焼け死に、その党も諸将に禽らえられて誅されたという。
  • このころ流賊はことごとく江北へ趨り、留都は震え驚いた。言う者は、家禎は命を奉じて安慶の賊を討つのに一度も中州を出たことがないと言い、帝もまた家丁の変によって内心これを軽んじた。翌年四月(1637年)、総理を熊文燦に授け、家禎には河南だけを撫させた。文燦が着任しないうちに、詔して左良玉を遣り安慶を援けさせたが家禎は遣らなかった。秋に劉國能が開封を犯し、裨将の李春貴らが戦死したので、罪を議して家禎は落職・閒住となった。
  • 久しくして李自成が京師を陥れ、兵を遣って長垣に拠り偽官を設けたとき、家禎はその子の元炌とともに自縊して死んだ。