明史卷二百六十四 列傳第一百五十二 吕維祺

出自と初任

  • 吕維祺は字を介孺といい、新安の人。祖母の牛氏は節を守って旌表され、父の孔學は母に孝で、粟千二百石を捐じて饑を振い、孝と義の両方で旌表された。
  • 維祺は萬厯四十一年(1613年)の進士、兖州推官に授けられ、吏部主事に擢でられて四司を歴任した。光宗が崩じ、皇長子がまだ践阼しないうちに内侍が小南城へ幸するよう導いたが、維祺は慈慶宮に謁見して「梓宮が殯にある以上、乗輿を軽々しく動かせません」と言い、これは止んだ。
  • 天啓の初め、考功・文選員外郎を歴て験封郎中に進み、告帰した。開封が魏忠賢の生祠を建てたときは、士大夫に書を送って関わるなと戒めた。忠賢が天下の書院を毀ったときは、芝泉講会を立てて伊洛の七賢を祀った。

防微八事

  • 崇禎元年(1628年)、尚寶卿に起こされ、太常少卿に遷って四夷館を督した。翌年四月の軍餉の廷議では、奉ずべき十五事を陳べた。その冬には防微八事を奏した。
  • 陛下は初め批答に勤められたが、今は留中されることがある。留中が多ければ疑慮が起こる。これが防ぐべき一。
  • 初めは虚心に商榷し、擬旨が一つ当たらなければ改擬して徑行させたが、今は執奏すべきものが無いはずがない。これが防ぐべき二。
  • 初めは疑い厭うことがなく、疑厭は諸臣の自ら招いたものだったが、今は共・夔のような賢臣が並び進むばかりに見える。これが防ぐべき三。
  • 初めは日々講筵に御されたが、今は初めから免を伝えられる。これが防ぐべき四。
  • 初めは嗜欲寡なく宴遊を慎まれたが、今はたまに渉られることがある。これが防ぐべき五。
  • 初めは刑獄を慎まれたが、今は詔獄に下される者があり、そのうえ登聞鼓が頻りに撃たれ、嚚訟の風を長ずる恐れがある。これが防ぐべき六。
  • 初めは廷推を重んじられたが、今はときに陪推の者を用いられ、常典でない。これが防ぐべき七。
  • 初めは讜言を楽しまれたが、今は譴訶が時に及ぶ。これが防ぐべき八。
  • 帝は優旨をもって報いた。

南京の糧儲と兵部尚書

  • 三年(1630年)、南京戸部右侍郎に擢でられ糧儲を総督した。会計簿を設けて隠没・侵欺および積逋不輸を鈎考すると、それぞれ数十百万に及んだ。大きいものは弾奏し、小さいものは捕えて治め、法を立てて厳しく屯課を督したので、倉庾はしだいに充ちた。六議を条上した——出入を稽べて侵漁を杜ぐ、比較を増して積案を完了させる、本科を設けて題覆を重んじる、会計を時に行って支収を覆す、差の序を定めて営私を杜ぐ、差假を禁じて職業を修める。帝は善しとしてただちに行わせた。
  • 六年(1633年)、南京兵部尚書を拝して機務を恭賛し、冒伍八千余名を洗い出した。江防を申飭するよう請い、鳳陵が外に対して単薄であることを憂えたが省みられなかった。
  • 八年正月(1635年)、賊が江北を犯し、参将の薛邦臣を遣って全椒を防がせ、趙世臣を浦口に戍らせたが、世臣が潰走して南京は震動し、鳳陽もまもなく陥落を告げた。大計の拾遺で言官がさらに別件を弾劾し、遂に除名された。
  • そのころ維祺の父の孔學は賊を避けて洛陽にいたので、維祺は帰って洛陽に留まり、伊洛会を立てた。門下に及ぶ者二百余人。『孝經本義』を著し、成って上呈した。

洛陽陥落と殉節

  • 十二年(1639年)、洛陽が大饑となる。維祺は福王常洵に、財を散じて士に餉して人心を振わせるよう勧めたが、王は省みなかった。そこで私の廩をことごとく出して局を設け振済した。事が聞こえて復官した。しかし飢民の多くは賊に従い、河南の賊はまた大いに熾んになり、まもなく李自成が大挙して攻めてきた。
  • 維祺は洛陽の北城を分守した。夜半、総兵の王紹禹の軍中に騎って馳せる者があり、城上でぐるりと呼ばわると城外もまた呼んで応じ、こうして城は陥ちた。賊のなかに維祺を知る者がいて「あなたは饑を振った吕尚書ではないか。私はあなたを生かせる。間道から去れる」と言ったが、維祺は応じなかった。賊は維祺を擁して去った。
  • そのとき福王常洵は民家に匿れていたが、賊が跡を追って捕らえ、道で維祺に出会った。維祺は後ろ手に縛られたまま王を望み見て叫んだ——「王よ、綱常は至って重い。どちらにせよ死ぬのです、賊に膝を屈しなさるな」。王は目を見開いたまま語らなかった。賊渠に周公廟で見えたとき、その項を押さえて跪かせようとしたが屈せず、頸を延ばして刃に就いて死んだ。十四年の正月某日(1641年)のことで、維祺は年五十五。太子少保を贈られ、祭葬と廕子は制の通りであった。
  • 維祺の家で新安にあったものも、十六年(1643年)に城が陥ちて破られた。弟の維祮は字を泰孺といい、選貢生から樂平知縣となっていた者で、この時に職を解いて帰り、やはり節に抗して死に、按察僉事を贈られた。福王が南京に立つと、維祺に太傅を加贈し忠節と諡した。