中官との抗争
- 周士樸は字を丹其といい、商邱の人。萬厯四十一年(1613年)の進士、曲沃知縣に除せられた。泰昌元年(1620年)に徴されて禮科給事中となる。
- 中官の王添爵が浄身の男子を選ぶのに賄を索めて変を激し、陵を守る劉尚忠が陵軍を煽って賞を要求し、劉朝らは軍器を齎送するという名目で山海関の外へ出て勢いが洶洶としていた。織造の李實は周起元を訐り、群璫は冬衣を索めて尚書の鍾羽正を辱めた。士樸はいずれについても疏して争った。
- 性は剛果で、世に随って身を曲げることができず、とりわけ中官と突っ張り合うのを好んだので、深く魏忠賢に憎まれた。京卿に擢でられるべきときに忠賢が握って下さなかったので、士樸は病と称して帰った。
工部尚書と商邱の落城
- 崇禎元年(1628年)、太常少卿に起こされ、戸部左右侍郎を歴て工部尚書を拝した。帝が中官の張彞憲に戸部・工部二部の出納を監させたので、士樸はこれを恥じてしばしば齟齬した。彞憲が帝に訐ると、士樸は疏対して辞が真直ぐで、帝も難詰できなかった。
- まもなく駙馬都尉の齊贊元が、遂平長公主の塋の価について士樸が瑞安大長公主の例を引かず、壽寧大長公主が薨じたときには瑞安の例を引いたとして、上疏して醜く詆り、遂にその籍を削られた。十五年(1642年)、廷臣がかわるがわる薦めたが召されなかった。その年八月、李自成が商邱を陥れ、妻の曹、妾の張、子で舉人の業熙、子婦の沈とともに同日に縊死した。