家系と族父の企仲
- 南居益は字を思受といい、渭南の人。尚書の企仲の族子、師仲の従子である。曽祖の從吉と曽伯祖の大吉はいずれも進士で、両家の子孫は科第が相継いだ。
- 企仲は大吉の孫で、萬厯八年(1580年)の進士。祖母が高齢であることを理由に終養を請い、祖母が没してのち刑部主事に授けられた。客が寓してその家に資財を預けたまま夫婦とも没したとき、企仲はその子を呼んで返した。吏部尚書の孫丕揚は賢として自分の属官に調え、文選郎を歴任させたのち太僕少卿に擢で、太僕卿に進めた。
- 三十年(1602年)、帝が病のため詔して礦稅を免じ、繋がれた囚を釈き、建言によって貶斥された諸臣を録用させたが、まもなく後悔して礦稅は従前どおりとし、残りは所司の議行にゆだねよと命じた。吏部・刑部尚書の李戴と蕭大亨が数日たっても奏さなかったので、企仲は二人をただちに罷め、二部に詔の通り奉行するよう勅せと請うた。帝は大いに怒り、伝諭して二つの事を即刻停め、企仲の一官を落とした。給事中の蕭近高、御史の李培・余懋衡もまた明詔を信じ行うよう請うと、帝はますます怒って俸を奪い、さらに以前貶謫した官の鄒元標らへの罰を重くするよう命じて、言う者を鉗しようとした。諸閣臣が力争してこれは止んだが、給事中の張鳳翔が帝意を迎えて別件で企仲を弾劾し、遂に削籍となった。
- 天啓の初め、太常卿に起こされ、累遷して南京吏部尚書、老齢を理由に致仕した。師仲の父の軒は吏部郎中で『通鑑綱目前編』を著した。師仲は南京禮部尚書に至った。
福建巡撫と紅毛夷
- 居益は若くして操行を励み、萬厯二十九年(1601年)の進士。刑部主事に授けられ、三たび遷って廣平知府、山西提學副使に擢でられた。雁門参政、按察使、左右布政使を歴任し、いずれも山西であった。
- 天啓二年(1622年)に入って太僕卿、翌年右副都御史に擢でられて福建を巡撫した。紅毛夷とは海外の雑種で、紺い眼、赤い鬚髪をもち、いわゆる和蘭国である。昔から中土と通じず、大泥・咬𠺕吧の二国を通じて閩の商人と通じていた。萬厯中、奸民の潘秀がその者たちを引き入れて彭湖に拠らせ交易を求めたので、巡撫の徐學聚は二国へ転売させたが、二国は険しく遠いので商人は捨てて呂宋へ向かった。夷人は呂宋が商舶を邀撃したと疑って攻め、また広東の香山澳を寇したが、いずれも敗れて国に帰れず、再び彭湖に入って交易を求め、そこに城まで築いた。
- 巡撫の商周祚はこれを拒んだが靖めきれず、ちょうど居益が周祚に代わった。賊はおりしも漳州・泉州を犯し、日本・大泥・咬𠺕吧および海寇の李旦らを招いて助けとしていた。居益は人を遣って旦を招き、説いて大泥・咬𠺕吧を離させた。賊帥の髙文律は懼れて使者を出し款を求めたが、居益はこれを斬った。鎮海港に城を築いて賊の拠る風櫃に逼ると、賊は窮迫して舟を泛べて去り、遂に文律を禽らえて海の患いは息んだ。
河道総督から削籍
- 五年(1625年)、工部右侍郎に遷り河道を総督した。魏忠賢は居益が功を叙するのに自分を入れなかったのを恨み、その賞を差し止めた。給事中の黄承昊がさらに、居益は門戸に倚りかかって通顕の地位へ躐り昇ったと論じ、遂に削籍して去った。閩の人々が闕に詣って訴えたが聴かれず、そこで祠を立てて祀り、彭湖と平遠臺に碑を勒した。
倉場総督・工部尚書
- 崇禎元年(1628年)、戸部右侍郎に起こされ倉場を総督した。陝西の鎮は餉が三十余月も欠けていたので、居益は陝西の賦のうち関門へ輸すべき分から三十万を留めて急を緩めるよう請い、可と報ぜられた。畿輔が戒厳すると、居益は通州にあって城守の備えを甚だ周到に整えた。
- 工部尚書の張鳳翔が軍械不備で吏に下され、四司の郎中で獄死する者が三人出た。そこで詔して居益が鳳翔に代わった。まもなく礮を試射して炸裂し、兵部尚書の梁廷棟が郎中の王守履の失職を弾劾した。守履は懼れて、兵部郎中の王建侯が自分を誣いたと詆ったが、廷議は守履の言う通りとならず、遂に獄に下された。居益が疏して救おうとすると、帝は私情を徇うものとして削籍・帰郷させ、守履は廷杖六十のうえ民に斥けた。まもなく城守の功を叙して居益に冠帯を復した。
- 十六年(1643年)、李自成が渭南を陥れ、南氏に餉百六十万を責めた。企仲は年八十三で害に遇った。居益および企仲の子で禮部主事の居業に降を誘ったが、いずれも従わなかった。翌年正月(1644年)、賊は兵を遣って二人を擁して去り、炮烙を加えたが、二人はついに屈せず、絶食七日で死んだ。