明史卷二百六十三 列傳第一百五十一 劉之勃

出自と言官としての建言

  • 劉之勃は字を安侯といい鳳翔の人。崇禎七年(1634年)の進士で行人を授けられ、御史に抜擢された。財を節する六義を上った。先朝は馬を萬単位で数えたのに草場は五、六か所しかなかった。今は馬が減っているのに場はかえって二倍に増えている、これが節減できるものの一つ。水衡の工役の費は年に幾百萬にもなり、近ごろ朝廷は造営を事としないという明旨を奉じているのに、節慎庫の額数は慣例のまま踏襲されている、これが二つ。諸鎮の兵馬はしばしば敗れ潰えているのに餉の額は減らず、空の兵籍が必ず多い、これが三つ。光禄の宴享や賜与はおおむね簡素にしているのに、監局の厨役に無駄が多い、これが四つ。三吳の織造、澤潞の機織り、さらに香蠟・薬材・陶器は毎年欠かさず貢がれ、内に積めば廃物、下から運ぶには金銭がかかる、これが五つ。軍前の監紀・監軍・賛畫の官は数え切れず、平時には一人が千百人分の餉を費やし、敵に臨めば千百人が一人の身を守るので、食も兵も損なう、これが六つ。
  • また東廠の三つの弊害を疏で陳べた。東廠が捜査を司るために、内は五城、外は巡按、さらに刑部・大理までがその職を果たせない、これは官の職守に不都合である。奸悪な民が千里の彼方から密告し、姓名を偽って一枚の紙で万人を連座させ、万金の家も忽ち空になる、これは民生に不都合である。子弟が父兄を、奴僕が家主を、部民が官長を訴えるのを東廠はみな喜んで聞く、これは国体に不都合である、と。帝はいずれもその言を容れた。
  • 十五年(1642年)、四川の巡按として出た。十六年(1643年)秋、災異をまとめて報告し、賦を緩め刑を省くのも災いを弭める一つの術だと請うたが、当時は用いられなかった。

成都の陥落と殉節

  • 翌年(十七年、1644年)正月、張獻忠が川中の郡邑を大いに破った。四月、都城が失われたと聞いて人心はいよいよ怯えた。挙人の楊鏘・劉道貞らが蜀王の至澍を擁立して監国とすることを謀ったが、之勃は承知せず、池に飛び込んだので議は止んだ。
  • 八月、賊が成都に迫ると、之勃は巡撫の龍文光、建昌兵備副使の劉士斗らと城壁を分けて守った。總兵官の劉鎮藩が出て戦って敗れた。賊は城を穴って火薬を詰め、また長さ数丈の大木をくり抜いて合わせ、絹を纏き、火薬を詰めて城楼に向けた。之勃が衆を励まして奮い撃つと賊は二、三里退いたので、みな喜んで賊が去るのだと思った。
  • 初九日の夜明け、北楼で火が発して崩れ、木石が飛んで天を覆い、城壁を守る者はみな散り、賊はそのまま城に入った。蜀王は妃妾を率いて菊井に身を沈めた。鎮藩は囲みを破って出、浣花溪に赴いて死んだ。之勃らは捕えられ、賊は之勃が同郷なので用いようとした。之勃は百姓を殺さぬこと、蜀の世子を輔けて立てることを勧めたが聴かれず、そこで大いに罵ったので、賊は矢を束ねて射殺した。このとき福王が南京で即位して之勃を右僉都御史・巡撫四川に抜擢したが、もう聞くことはできなかった。

史論

  • 贊に言う。潼関が破れると李自成は勝ちに乗じて三秦を窃み据え、河を渡って東へ進む勢いは野火のようであった。宣府と大同がともに覆って明の滅亡は決した。一時期の封疆の諸臣が先を争って死んだのは、烈と言わずにいられようか。しかし平陽の旗を返して東へ向かったばかりのところへ船窩の急報が届いたことを思えば、死ぬことが難しいのではなく、死に方が難しいのである。君子は懋徳について遺憾を抱かずにいられない。一鶴が顯陵に死に、士竒が夔州に死に、劉之勃と龍文光が成都に死んだのは、死に場所を得た者と言うべきではないか。