出自と四川巡撫
- 陳士竒は字を平人といい漳浦の人。学を好んで文名があったが、兵は知らなかった。天啟五年(1625年)の進士に及第し、中書舍人を授けられた。崇禎四年(1631年)の考選で禮部主事を授けられ、廣西提學僉事に抜擢された。父の喪で帰郷し、服喪が明けて重慶兵備に起用され、まもなく貴州に改められ、また学政を督した。母の喪が明けて贛州兵備参議に起用され、副使に進んで四川の学政を督した。廷臣は次々と上章して士竒は兵を知ると推薦した。
- 十五年(1642年)秋、右僉都御史に抜擢されて廖大竒に代わり四川を巡撫した。松潘で兵が変を起こし衆は数萬に上ったが、士竒が禍福を諭すとみな招撫に応じた。姚黄の賊十三家は川の東北を十餘年縦横し、殺し掠めた軍民は数え切れず、若者を捕えてその顔に刺青して兵とし数十萬に達していた。士竒は副使の陳其赤・葛徴竒、参將の趙榮貴らに檄して進討させ、たびたび勝報を告げたが、賊は狡猾でついに制圧できなかった。
- 士竒はもともと文人で、二度学政を督したときも諸生と兵を談じるのを好んだので、朝士は士竒が兵を知ると思った。しかし節鉞を執るとかえって文墨を事とし、軍政は弛んだ。石砫の女将の秦良玉が蜀全体の形勢を図に描き、兵を増やして十三の隘路を分け守って賊の突入を防ぐことを請うたが、取り上げなかったので、蜀はこのために騒がしくなった。
- 翌年(十六年、1643年)十二月、朝議は士竒が任に堪えないとして龍文光を代わりに命じた。士竒が交代を待っていたところ、陽平の将の趙光遠が兵二萬を擁して瑞王常浩を護りながら漢中から逃げてきて、避難する士民も数萬が保寧に至り、蜀の人は震え上がった。士竒は駆けつけて光遠を責め、「お前が退いて陽平関を守り我らの防壁となるなら、二萬金の犒軍も惜しまない。しかしここに留まって厚い餉を求めるなら、私の首は斬れても餉は出せない」と言った。光遠は退いて陽平に屯し、瑞王は三千騎で重慶へ奔った。
重慶の陥落と殉節
- 翌年(十七年、1644年)四月、文光が交代を受け、士竒が発とうとしたとき京師の変事が告げられた。士竒は自ら兵を知ると自負していたので、「必ず国の仇を報じる」と言って重慶に留まり駐まった。水師参將の曽英を遣わして忠州で賊を撃ちその舟を焼き、趙榮貴を遣わして梁山で賊を防がせた。獻忠は葫蘆壩から、左に歩兵、右に騎兵を置き、舟を翼のように従えて遡ってきた。二将は敗れて逃げ、賊は佛圖関を奪って涪州を陥れた。士竒は石砫に援兵を求めたが来なかった。すでに職を辞したのだから去るべきだと勧める者もあったが、士竒は承知しなかった。賊が城下に至ると滚砲で撃ち、賊の死者は数え切れなかった。
- 二十日の夜、黒雲が四方に垂れ込め、賊が地を穴って城を爆破し、城は陥ちた。瑞王と士竒および副使の陳纁、知府の王行儉、知縣の王錫はみな捕えられた。士竒は大いに罵り、賊は教場に縛って殺そうとした。にわかに雷雨が起こって暗くなり、目の前も見えなくなった。獻忠は天を仰いで罵り、「私が人を殺すのに天が何の関係がある」と言い、大砲で天に向けて撃ちまくった。まもなく晴れると、思うさま毒手を振るい、士竒は罵り止まぬまま死んだ。瑞王もまた殺された。賊は軍民三萬七千餘人を集めてその腕を斫り、そして成都を犯した。
- 纁はもと関南兵備副使で、瑞王を護って蜀に入り難に遭った。
- 行儉は字を質行といい宜興の人。崇禎十年(1637年)の進士。重慶を守ってよく人を撫御したが、賊に切り刻まれて死んだ。
- 錫は新建の人。崇禎十三年(1640年)の進士で巴縣知縣に任じられた。かつて士竒に従って土賊の彭長庚の一党を殲滅し、また揺黄の賊の首領の馬超を斬った。ここに至って賊が大きな板をかぶって城を穴つと、錫は熱した油を注いで多くを死なせた。捕えられると大いに罵り、歯をえぐられてもなお罵り、膝を打って跪かせようとしてもいっそう昂然と立った。教場に舁いて行き樹に縛って射、さらに切り刻んで焼いた。死んだ後にはその骨まで毀した。
- 指揮の顧景は城が陥ちたと聞いて瑞王府に入り、自分の乗っていた馬に王を乗せ、鞭打って走らせた。賊に遭うと「私を殺してもよい、帝の子を殺すな」と叫んだ。賊は王を刺し殺し、景もそのまま死んだ。