出自と地方官としての経歴
- 朱之馮は字を樂三といい大興の人。天啟五年(1625年)の進士で、戸部主事を授けられて河西務で税を榷し、剰余を公の帑に納めて私しなかった。父の喪で去った。崇禎二年(1629年)に旧官で起用されて員外郎に進んだが、過失に坐して浙江布政司理問に落とされ、やや遷って行人司副となり、刑部郎中・浙江驛傳僉事・青州参議を歴任した。盗が沂水の民から掠奪した事件で連座が甚だ広がっていたが、之馮は真犯人を捕えて大獄をすべて解いた。樂安の土豪の李中行を捕えて処断し、権貴が助命を請うたが聴かなかった。副使に進み、上表のため都に入るとき家族を濟南に預けた。濟南が破れると、妻の馮氏は姑と子を他所に隠して自らは井戸に沈み、姑の李氏はこれを聞いて食を絶って死んだ。柩が還ると、之馮は墓の傍らに廬して三年を過ごした。
- 河東副使に起用された。河東の大悪人の朱全宇が密かに秦の賊と通じていたので、之馮は着任するとすぐ捕えて殺し、管内は安んじた。之馮は妻が死んでから再婚もせず妾も置かず、家の中はがらんとしていた。
- 十六年(1643年)正月、右僉都御史に抜擢されて宣府を巡撫した。餉を司る主事の張碩抱が餉を削って兵変を招き、一団が碩抱を縛った。之馮は出て諭し、商民の資を借りて分け与え、密かに首謀者七人を捕えて誅し、碩抱を弾劾して獄吏に下したので、軍情は落ち着いた。
宣府の陥落と殉節
- 翌年(十七年、1644年)三月、李自成が大同を陥れた。之馮は将吏を城楼に集め、高皇帝の位牌を設け、血をすすって死守を誓い、賞格を懸けて将士を励ましたが、人心はすでに離れていた。監視の中官の杜勛は總兵の王承允と先を争って賊に款を通じており、之馮に会うと叩頭して城を挙げて賊に降ることを請うた。之馮は大いに罵って「勛よ、お前は帝が頼み信じてわざわざ遣わし、封疆を託した者だ。着くやいなや賊に通じて、どの面を下げて帝に会うのか」と言った。勛は答えず、笑って去った。
- まもなく賊が来ると、勛は蟒袍を着て先払いを鳴らし三十里の郊外まで出迎えた。将士はみな散った。之馮は城に登って嘆息し、大砲を見て左右に「私のために撃て」と言ったが、誰も黙って応じなかった。自ら立って火を点けようとしたが、砲門は釘で塞がれており、後ろから肘を引っ張る者もいた。之馮は胸を撫でて「人心がここまで来ているとは思わなかった」と嘆き、天を仰いで大いに哭いた。賊が城下に至ると承允が門を開いて入れた。賊は人を殺さず賦役も免ずるという噂が立ち、城じゅうが沸き立って喜び、飾りを結び香を焚いて迎えた。左右が之馮を担いで逃げようとしたが、之馮は叱りつけ、南に向かって叩頭し、帝に人心を収め士の節を励ますよう勧める遺表を草して、自ら縊れて死んだ。賊はその屍を濠に棄てた。濠のほとりの犬は日々人の屍を食っていたが、之馮の屍だけは損なわれなかった。
- 同じ日に死んだのは、督糧通判の朱敏泰、諸生の姚時中、副將の寧龍、および獄に繋がれていた總兵の董用文、副將の劉九卿、在郷の知縣の申以孝で、そのほか義に殉じた婦女がまた十餘人あった。福王の時、之馮に兵部尚書を贈り、忠壯と諡した。
- 勛は賊に降ると京師の攻撃に従い、城中へ書を射込んだ。城中では初め勛が宣府で死んだと聞き、帝は贈官と廕を与えて祠を建てていたので、このときは幽霊だと思った。城を守る監の王承恩が女牆に寄りかかって語り、勛を縄で吊り上げて入れて帝に会わせた。勛は自成を盛んに褒め称え、陛下は自ら身の処し方をお考えなさいと言った。また縄で吊り下ろして出し、守りの諸監に笑って「我らの富貴は思いのままだ」と語った。