出自と言官としての経歴
- 衞景瑗は字を仲玉といい韓城の人。天啟五年(1625年)の進士で河南推官を授けられた。崇禎四年(1631年)に召されて御史を授けられ、首輔の周延儒が賄を納れ私を行った数事を弾劾し、さらに吏部侍郎の曽楚卿の邪佞を弾劾したが、帝は容れなかった。真定などの府の巡按として出た。父の喪では命を待たずに帰郷した。服喪が明けて旧官に起用され、給事中の傅朝佑・李汝璨が温體仁を論じて獄吏に下されたのを救う疏を出したので、帝は不快に思い、行人司正に左遷した。尚寳・大理丞を歴任し、少卿に進んだ。
- 十五年(1642年)春、右僉都御史に抜擢されて大同を巡撫した。飢饉と疫病に対して救済を疏で乞い、軍の備えを点検し、火器を鍛え、豪族を抑えて、声望と実績が甚だ著しかった。
姜瓖の裏切りと殉節
- 十七年(1644年)正月、李自成が山西を犯そうとしたので、宣大總督の王繼謨は大同總兵官の姜瓖に檄して河上で防がせたが、瓖は密かに使いを出して賊に款を通じてから帰った。景瑗はその変心を知らなかった。山西が陥ちると、景瑗は瓖を招いて血を啜って守りを誓わせた。瓖は出て人に「衞巡撫は秦の人だ。賊に応じるつもりだろう」と言った。代王は景瑗を疑って会わず、永慶王は景瑗の僕を射殺した。折しも景瑗は足の病で常には出られず、軍事は瓖が取り仕切った。瓖の兄の瑄は元の昌平總兵で、瓖に賊への降伏を勧めた。瓖は部下が従わないのを懸念して、一人一人に銀を賞し、口では城を守る将士を励ました。代王はこれを信じ、諸郡王が門を分けて守り、瓖は門ごとに兵二百人を送って守りを助けた。
- 三月朔日、賊が城下に至ると、瓖はただちに永慶王を射殺し、門を開いて賊を迎え入れ、軍事の相談だと偽って景瑗を呼んだ。景瑗は馬に乗って出てはじめて変事を知り、自ら馬から身を投げて下りた。賊は彼を捕えて自成に会わせ、自成は官に用いようとした。景瑗は地に座り込み、大声で皇帝を呼んで哭いた。賊は義として「忠臣だ」と言い、殺さなかった。景瑗はにわかに立ち上がって頭を階の石に打ちつけ、血まみれになった。賊が引き出すと、瓖の姿を見て罵り、「反賊め。私と盟いながら叛いた。神がお前を赦すものか」と言った。賊が景瑗の母に降伏を勧めさせると、景瑗は「母上は八十餘歳です。ご自身のことをお考えください。子は国の大臣です。死なぬわけにはまいりません」と言った。母が出て行くと、景瑗は人に「私が賊を罵らなかったのは、母を全うするためだ」と語った。
- 初六日、僧寺で自ら縊れた。賊は「忠臣だ」と嘆じ、その妻子を空き家に移して犯すなと戒めた。代王の傳㸄とその宗室はほとんど殺し尽くされた。
- 分巡副使の朱家仕は妻妾と子女をことごとく井戸に追い込んで自分もこれに従い、死んだ者は十六人であった。督儲郎中の徐有聲、山陰知縣の李倬もまた死んだ。諸生の李若蔡は自らその壁に「一門完節、一家九人自經」と題した。家仕は河洲の人である。
- 福王の時、景瑗に兵部尚書を贈り、忠毅と諡した。
- 賊は大同を陥れると、兵を陽和に向け、長駆して宣府へ向かった。