明史卷二百六十三 列傳第一百五十一 蔡懋徳
蔡懋徳(字は維立、?–1644年)。崑山の人で、若くして王守仁を慕い『管見』を著して良知の説を宗とした。魏忠賢の生祠参拝を拒むなど権勢に与せず、地方官として太湖の海盗屠阿丑を捕えるなど兵事にも通じた。崇禎末に山西巡撫となり、疲れた兵三千で黄河を守って李自成の大軍を拒んだが支えきれず、平陽を失って弾劾され罷官の命を受けた。それでも城を去らず太原で誓師し、城が陥ちると三立祠で自ら縊れて殉じた。福王の時に忠襄と諡された。
年表(10件)
- 萬厯四十七年1619年進士に及第し杭州推官を授けられる
- 崇禎十四年冬1641年右僉都御史に抜擢されて山西を巡撫する
- 崇禎十六年冬1643年李自成が潼関を破って西安に拠り、三秦を失う
- 崇禎十六年十二月1643年軍を平陽に進め、副將の陳尚智に河津を扼させる
- 崇禎十六年十二月二十二日1643年賊が平陽を攻め抜き、二十八日に太原へ帰る
- 崇禎十七年正月1644年巡按御史汪宗友に弾劾され、官を奪われ勘問を待つ身となる
- 崇禎十七年正月二十三日1644年陳尚智が叛いて賊に降り、太原で誓師して死を期する
- 崇禎十七年二月五日1644年賊が太原城下に至り、出戦した牛勇・朱孔訓・王永魁が戦死する
- 崇禎十七年二月1644年張雄の内応で太原が陥ち、三立祠で應時盛とともに縊れて死ぬ
- 崇禎十七年二月1644年布政使趙建極ら太原に殉じた者は四十六人に上る
出自と地方官としての経歴
- 蔡懋徳は字を維立といい崑山の人。若くして王守仁の人となりを慕い、『管見』を著して良知の説を宗とした。萬厯四十七年(1619年)の進士に及第し、杭州推官を授けられた。天啟年間に行取で都に入ったが、同郷の顧秉謙が政権を握っていたのに懋徳は交際しなかったので秉謙は怒り、そのため顕職に抜擢されず、禮部儀制主事を授けられ祠祭員外郎に進んだ。尚書が諸司を率いて魏忠賢の生祠に参拝したときも、懋徳は病と称して行かなかった。
- 崇禎の初めに江西提學副使として出、王守仁の抜本塞源論を好んで諸生に教えたが、おおむね釈氏の余論であった。浙江右参政に遷って嘉興・湖州を分守した。凶悪な盗賊の屠阿丑が千餘の衆を擁して太湖に出没していたが、懋徳は「これは計略で捕えられる」と言い、湖畔の有力者をすべて呼んで罪を問い、壮士を選んで一緒に出動させ、ついに阿丑を捕えた。人々はみな懋徳は兵を知ると言った。
- 母の喪に服し、服喪が明けて井陘兵備に起用された。旱があると懋徳が祈って雨が降り、他の郷も争って迎えて祈らせると、また雨が降った。寧遠に移り、松山を守った功と臺堡を修めた功でたびたび叙されて賜り物を受けた。災異があって意見を求められたとき、懋徳は「省過」「治平」の二疏を上って君と宰相を諫めたが、当時の人はみな迂遠だと笑った。
- 懋徳は釈氏を好み、苦行の頭陀のように身を律した。楊嗣昌は、清らかに修行する弱い体質は辺地に置くべきでないとして、濟南道に改めた。濟南は破壊されたばかりで上級の官が多く欠けていたので、懋徳は両司と三道の印を兼ね摂した。山東按察使、河南右布政使に遷った。田は荒れ穀は貴く、民は催促に苦しみ、賊はまた先に自分に服せば租を納めなくてよいと煽って誘っていたので、懋徳は急ぎ州縣に檄して徴収を止め、上疏して自ら弾劾した。詔で七級を降されて職務を執った。
山西巡撫と黄河防衛
- 十四年(1641年)冬、右僉都御史に抜擢されて山西を巡撫した。召されて対問し、酒饌と銀・幣を賜った。翌年春に着任し、大盗の王冕を討ち平げた。十月には兵を率いて京師の入衛にあたり、詔で龍泉・固関の二関を扼して守った。李自成がすでに河南を陥れると、懋徳は河上でこれを防いだ。
- 十六年(1643年)冬、自成が潼関を破って西安に拠り、三秦をことごとく手に入れた。十二月、懋徳は軍を平陽に進め、副將の陳尚智を遣わして河津を扼して守らせた。山西は京師の右腕であり、蒲州から北は寳徳までことごとく賊と隣り合い、黄河を険としているが、真冬で氷が張っていたので賊の騎兵は長駆できた。懋徳は続けざまに上章して急を告げ、禁旅および保定・宣府・大同の兵を速やかに河のほとりへ差し向けて共に拒むよう請い、朝廷の憂いはいよいよ積もった。山西で河の防備を論じる者は多かったが、援けられる兵がなかった。懋徳は疲れた兵三千で百萬の狂賊に当たった。
- そのころ太原は□□で、晉王が手書きで懋徳に省城へ帰るよう促した。十八日、懋徳が平陽を去り、二十日に賊が河津に至って船窩から東へ渡ると、尚智は平陽へ逃げ帰った。二十二日、賊は平陽を攻めて抜き、尚智は泥源の山中へ逃げ込んだ。二十八日、懋徳は太原に帰った。
弾劾と太原の陥落
- 翌年(十七年、1644年)正月、自成は西安で王を称した。賊は河を渡ると河東を転戦して掠め、諸城はみな陥ちた。そこで山西巡按御史の汪宗友が上言した。晋は河沿い二千里、平陽がその半ばを占めている。巡撫の懋徳は春に氷が解けるのも待たずに平陽から旗を返し、賊は翌日には渡河を報じた。同行の馬歩千人でただちに倍速で西へ向かい、陳尚智の叛卒を召し集め、各路の防兵に檄を移して援け剿すべきだったのに、一兵も発せず年の暮れに省城に至った。臣は一軍を率いて星のように駆けつけ、疑兵の勢を張って声討し、なお失地回復を望むべきだと申し上げたが、聴かれなかったのだからどうしようもない。賊は日々偽の官を派遣し、一月足らずで諸郡が失われた。これは誰の過ちか、と。詔があって官を奪われ勘問を待つことになり、郭景昌が代わることになった。
- 二十三日、尚智は叛いて賊に降った。そこで懋徳は太原で誓師した。布政使の趙建極、監司の毛文炳・藺剛中・畢拱辰、太原知府の孫康周、陽曲縣の事務を署理する長史の范志泰ら、官吏も軍民もみな居合わせた。懋徳が哭くと、衆もみな哭いた。罷官の命がちょうど届き、城を出て後任を待つよう請う者があったが、懋徳は「私はすでに一死を覚悟している。景昌が来ればともに死ぬだけだ」と言って承知しなかった。陽和の兵三千を調えて東門の守りを協力させたが、剛中が内応を懸念したので南関の外に移した。歩將の張雄を遣わして新南門を分守させ、中軍副總兵の應時盛を呼んで謀議に加え、懋徳らは城に登った。
- 二月五日(1644年)、賊が城下に至った。歩將の牛勇・朱孔訓・王永魁を出して戦わせ、いずれも死んだ。翌日、自成は鹵簿を整えて衆を督して城を攻め、陽和の兵が叛いて賊に降った。その翌日は昼なのに暗く、懋徳は遺表を草した。たちまち大風が起きて木を抜き砂を巻き上げた。張雄を大南門の守りに移そうとしたが、雄はすでに城を縄で降りて降っており、その一党に「城の東南角楼の火器と火薬はみな我らの手の下にある」と言って角楼に火を放った。夜中に火が起こり風がいっそう激しくなって、守る者はみな散り、賊が城に登った。
- 懋徳は北に向かって再拝し、遺表を出して友人の賈士璋に託し間道から京師へ届けさせ、人に「私は道を学んで年久しく、すでに生死を勘破した。今日が命を捧げる時だ」と語って自刎した。麾下がこれを押さえた。時盛が城を降りて巷戦することを請い、懋徳を見て「馬に乗られよ」と言うと、懋徳は馬に乗った。時盛は矛を持って突き進み賊数十人を殺し、炭市口に至ると賊の騎兵が満ちていたので、時盛は「西門から出よ」と叫んだ。懋徳はにわかに馬を降りて「私は封疆に死ぬべきだ。諸君は自ら去れ」と言った。衆がまた懋徳を馬に押し上げて水西門に至ると、懋徳は叱って「諸君は私を不忠に陥れる気か」と言い、再び馬を降りて地に座り込んだ。時盛はすでに城を出て妻子を殺していたが、振り返って懋徳が見えないので、門を斫って引き返し、懋徳に「あなたとともに死なせてください」と言った。そして共に三立祠に至った。懋徳は縊れたがまだ絶命しないので、時盛は甲を脱いでその肩に載せ、ようやく絶命した。時盛は弓の弦を取って自ら縊れた。
趙建極ら――太原に殉じた人々
- 建極は公堂に端座していたが、賊に引き立てられて自成に会わされ、屈しなかった。斬ろうとして階を下るとき、二度「万歳」と呼び、「臣は封疆を守れなかった。死んでも余りある罪だ」と言った。自成は自分に呼びかけたのだと思って引き戻したが、建極は目を怒らせて「私は大明の皇帝に呼びかけたのだ。賊に呼びかけるものか」と言った。ただちに射殺された。このとき自成は晉王を捕えて王宮に拠っていたという。
- 文炳は殺され、妻の趙氏と妾の李氏も井戸に身を投げて死んだ。子の兆夢はまだ数歳で賊に掠われたが、士民は忠臣の子だからと身代金を出して取り戻した。
- 剛中を降らせようとしたが従わないので殺した。首が落ちると、なおも一丈餘りも躍り上がったので、賊はみな後ずさりした。
- 賊がちょうど新しい刀を手に入れたとき、拱辰がそれを横目で見た。何を見ているのかと問われ、「これで首を斬ってもらいたいのだ」と答えたので、その刀を取って斬った。
- 康周は巷戦して死んだ。志泰は食を絶って死んだ。
- 懋徳以下、太原で殉死した者は四十六人に上り、賊はみなその屍を城上に晒した。自成は懋徳が最後まで手にかからなかったのを恨み、その屍を検分して刃で首を断って去った。福王の時、懋徳が河を守らなかったのを失策だとして、忠襄と諡し祭葬を賜ったが贈官も廕も与えなかった。他の者にも差をつけて弔いを賜った。四十六人の事績を調べようにも多くが欠けており、姓名すら伝わらない者があって順序立てて記せない。
- 建極は河南永寧の人。賊が永寧を掠めたとき建極の五人の子はみな死に、その後三人の子が生まれたがまた夭折し、ここに至って趙氏一門はついに絶えた。
- 文炳は字を夢石といい鄭州の人。吏科給事中から山西兵備副使として出た。給事中のとき、楊嗣昌が督師として民兵を調発して賊を討つことを議したのに対し、文炳は民兵は守れても調発はできない、官軍が馬に乗って賊を殺す方がよいと述べた。また大計(人事考課)にあたって、考課を主管する者は奔走して求める者を喜び清廉沈静な者を抑えるから、官どうしが不公正を互いに糾せるようにすべきだと述べ、帝はいずれもその言を容れた。
- 剛中は字を坦生といい陵縣の人。南京給事中として留都を保護する六事を奏し、また漕事の弊を救う要点を陳べた。山東が飢えたときには、「民は死んでも丁は帳簿に残り、田は荒れても賦は課される。どうして盗にならずにいられよう」と上疏し、戸口を洗い出して里甲を統合すべきだと説き、いずれも時弊を突いていた。山西副使に遷った。
- 拱辰は字を星伯といい掖縣の人。朝邑・鹽城の二縣を知り、たびたび遷りたびたび貶せられ、淮徐兵備僉事を歴任したが、督漕侍郎の史可法が任に堪えないと言って冀寧に移した。建極・文炳・剛中・拱辰はいずれも進士出身である。
- 康周は字を晉侯といい安邱の人、郷試出身。時盛は遼陽の諸生で、懋徳に知られて幕下に抜擢され、都督僉事に至った。志泰は虞城の人。他は考証できない。
山西各地の殉節者
- 太原が破れると賊は檄を遠近に移し、行く先々の郡縣は風を望んで寨に立てこもり官兵を拒んだ。そのなかで義に殉じ、胸を貫かれ首を断たれても甘んじた者としては次の人々がいる。
- 安邑知縣の房之屏は宛平の人、郷試から身を起こした。城が陥ちると北に向かって天子を拝し、役所に入って母を拝し、妻子にそれぞれ自尽するよう命じ、自分は井戸に身を投げた。賊は引き出して斬った。
- 忻州知州の楊家龍は字を惕若といい曲陽の人。寧鄉知縣を七年務めて流亡した者を生業に復させ、忻に遷った。賊が至ると「この城は必ず守れない。私が出れば、お前たち民は全うできる」と言い、城を出て賊を罵って死んだ。州の人は祠を建てて祀った。
- 代州参將の閻夢夔は鹿邑の人、汾州知州の侯君昭とともに、城の滅亡と運命を共にした。
- 汾陽知縣の劉必達は袂から賊を罵る文を取り出し、賊はそれを読み上げてから殺した。
- その義勇の范竒方は偽の都尉一人を刺し殺して自刎した。
- 寧武兵備副使の王孕懋は字を有懐といい、太原知府から遷った。自成が太原を陥れた後に使者を遣わして降伏を説くと、孕懋はその使者を斬り、總兵官の周遇吉とともに城を守った。城が陥ちて自殺し、妻の楊氏は井戸に身を投げて殉じた。孕懋は霸州の人で進士。遇吉には別に伝がある。
- 寧武が失われると、賊は三関を破って大同を犯した。