明史卷二百六十三 列傳第一百五十一 林日瑞

出自と甘肅巡撫

  • 林日瑞は字を浴元といい詔安の人。萬厯四十四年(1616年)の進士。崇禎の初めに江西右参政のとき喪で帰郷し、服喪が明けて旧官で起用され湖廣を分守した。管轄の鉛山縣は閩に境を接し、妖しげな者が山中に集まって謀叛を企て鉛山を囲んだが、日瑞は撃ち破ってその巣窟を衝いた。しばしば遷って陝西の左布政使・右布政使となった。
  • 十五年(1642年)夏、右僉都御史に遷って吕大器に代わり甘肅を巡撫した。

甘州の陥落と殉節

  • 翌年(十六年、1643年)十一月、李自成が慶陽を屠り、その別将の賀錦が蘭州を犯した。蘭州の人が城を開いて賊を迎え入れたので、賊は河を渡り、涼州・莊浪の二衞が降り、そのまま甘州に迫った。日瑞は賊が急だと聞き、西羌と結んで厳重に備え、自らは副將の郭天吉らを率いて河のほとりを扼した。
  • 十二月、賊は氷を踏んで渡り、まっすぐ甘州城下に至った。日瑞は城に入って戦いながら守った。大雪は一丈餘りも積もり、樹はみな氷に覆われ、枝や幹は折れ、手足はひび割れ凍傷になり、守る者はみな怨んだ。賊が夜に乗じて雪を掘り削って登り、城は陥ちた。日瑞は捕えられ、官位で誘われても従わなかったので、市中で磔にされた。
  • はじめ日瑞が甘肅を巡撫したとき、廷議は任に堪えないとして楊汝經を代わりに遣わしたが、着任しないうちに日瑞は難に遭ったのである。
  • 天吉および總兵官の馬爌、撫標中軍の哈維新・姚世儒、監紀同知の藍臺、在郷の總兵官羅俊傑・趙宦もあわせて死んだ。賊は居民四萬七千餘人を殺した。
  • 三辺が陥ちると諸城は風を望んで降り、西寧衞だけが固守して落ちなかった。賊は後顧の憂いがなくなり、そのまま東へ長駆した。福王の時、日瑞に兵部尚書を、藍臺に太僕寺少卿を贈り、いずれも祭葬を賜った。