明史卷二百六十三 列傳第一百五十一 宋一鶴

篇首の立伝者一覧

  • 宋一鶴(割注: 沈夀崇・蕭漢)
  • 馮師孔(割注: 黄絅等)
  • 林日瑞(割注: 郭天吉等)
  • 蔡懋徳(割注: 趙建極等)
  • 衞景瑗(割注: 朱家仕等)
  • 朱之馮(割注: 朱敏泰等)
  • 陳士竒(割注: 陳纁等)
  • 龍文光(割注: 劉佳引)
  • 劉之勃(割注: 劉鎮籓)

出自と抜擢

  • 宋一鶴は宛平の人。諸生であったとき天下が大乱になるのを見て、兵事の研究に打ち込んだ。崇禎三年(1630年)に郷試に及第して教諭を授けられ、推薦によって邱縣知縣に遷り、さらに推薦で東昌同知を加えられたが知縣の事務はそのまま執った。巡按御史の禹好善が一鶴は兵を知ると推薦し、兵部員外郎を授けられた。まもなく天津兵備僉事に抜擢され、汝南兵備に改められて信陽に駐まった。

湖廣での戦功

  • 当時、熊文燦が南畿・河南・山西・陝西・湖廣・四川の軍務を總理し、招撫の議を主としていた。一鶴はその盗賊の頭目の黄三耀を降し、また死賊順天王の一党の劉喜才を降した。一鶴は前後に強力な賊を剿し、七百餘級を斬った。副將の龍在田に従って固始で賊を破り、一鶴はその賊千人を毒殺した。左良玉が賊の李萬慶を降すと、一鶴はこれを撫して数萬を鎮定した。文燦はたびたびその功を報告して推薦し、副使に進んで鄖陽に移った。文燦が誅され楊嗣昌が代わると、一鶴は有能だとして推薦され、右僉都御史に抜擢されて方孔炤に代わり湖廣を巡撫した。
  • 当時、湖廣の賊は諸将に追われて多くが四川へ逃げ込んでいた。一鶴は雲南の軍で當陽に移り鎮し、中官の劉元斌が京軍で京門に移り鎮して掎角の勢をなした。左良玉らが瑪瑙山で賊を大破し、一鶴も功を叙されて俸を増された。副將の王允成・孫應元らを遣わして羅汝才の五大営を豐邑坪で大破し、三千餘級を斬った。嗣昌は一鶴を荆楚第一の功と評した。
  • 張獻忠が襄陽を陥れ、革裏眼・左金王らと東の黄州・汝寧の間に集まった。一鶴は蘄州に移り駐まり、舟を焼いて賊の渡河を防いだ。賊が北へ移ると、一鶴はまた横江を断ち、賊は渡れなかった。
  • 嗣昌が没して丁啟睿が代わった。啟睿が麻城で獻忠を破ると、一鶴および鳳陽總督の朱大典、安慶巡撫の鄭二陽と合流して、左金王・老回回らを潛山・懐寧の山中に追い詰めた。一鶴はまた恭將の王嘉謨らを督して左金王・争世王・治世王を燈草坪で追い破り、千八百級を斬った。
  • 十五年(1642年)、部將の陳治らを遣わして江北の兵と合わせ、桐城・舒城で賊を破った。

讒謗と承天の陥落

  • 一鶴は郷試出身から十年足らずで節鉞を執ったので、廷臣は嫉まずにいられなかった。御史の衞周允は上疏して一鶴を口汚くそしった。一鶴はたびたび功を建てながら、しばしば当時の悪評を蒙った。嗣昌の父の名に「鶴」の字があったため、一鶴は掲帖を出すとき自らの名を「一鳥」と署し、楚の人はこれを笑い話として伝えた。一鶴もまた続けざまに疏を出して病を理由に退こうとした。帝はそれが偽りではないかと疑い、担当官に厳しく調べさせた。すでに襄陽陥落の責で職を奪われ戴罪の身であったが、ここに至って解官して後任を待つことを許された。
  • 汝寧の救援に急いだが、汝寧城はすでに陥ちていた。十二月、襄陽・徳安・荆州が相次いで陥落を告げた。一鶴は承天へ向かって獻陵を護った。陵の軍は木を柵にして城としていたが、賊は薪を積んで焼き、煙は純徳山を覆い、城は穿たれ、一たび太鼓が鳴ると賊は登り、獻陵を犯して禋殿を毀した。陵を守っていた巡按御史の李振聲と總兵官の錢中選はいずれも降った。年の暮れに承天を攻め、翌年(崇禎十六年、1643年)正月二日、城を賊に渡す者があって城はついに陥ちた。一鶴は自ら首をくくった。
  • 元の留守の沈崇夀と鍾祥知縣の蕭漢もともに死んだ。分巡副使の張鳳翥は山中に逃げ込んだ。
  • これより先、左良玉の軍が襄樊を荒らしたので一鶴は疏で糾弾した。良玉が襄から承天へ走ったとき、軍が飢えて掠奪し、一鶴に餉を乞うたが許さなかったので、良玉は恨みを含んだ。ここに至って一鶴は良玉の兵を留めようとしたが、良玉は武昌へ走ったため、この難に遭ったのである。

沈夀崇・蕭漢――承天に殉じた人々

  • 夀崇は宣城の人、都督の沈有容の子。崇禎の初めの武進士で、巡按に逆らって弾劾され罷免されたが、まだ発たぬうちに賊が至って難に遭った。都督僉事を贈られ、子に錦衣衞百戸を廕された。
  • 漢は字を雲濤といい南豐の人。崇禎十年(1637年)の進士。任期が満ちて発とうとしていたとき賊が城に迫ったので、そのまま家廟に別れを告げ、妾たちに佩巾を授けて「男は忠、女は烈だ。努めて自ら果てよ」と言った。そして出て城壁に登り、五昼夜守り抜いた。元旦に囲みを破って出て獻陵へ向かうと、賊の騎兵に取り巻かれた。漢は大声で「鍾祥の縣令がここにいる。誰が陵寝を騒がせるか」と叫んだ。賊は彼を連れ去ったが殺さず、降伏を説いたが聴かなかった。翌日城が陥ちると、漢を吉祥寺に送って厳重に見張ったので、死のうにも死ねなかった。三日後、僧の寝台から剃刀を見つけて隠し持ち、古紙を取って楊繼盛の絶命詞を書き、紙が尽きると筆を投げて立ち上がり、さらに土塊を拾って壁に「鍾祥縣令蕭漢願死此寺」の十字を画き、その壁に向かって自刎した。血はちょうどその字の上に飛び散って死んだ。賊はその義を嘉して錦衣衞に納棺して埋めさせた。賊が退くと、その門人が時服に改めて納棺し、「ああ、大白の杯すら汚さぬというではないか。我が師が賊の服を着ようか」と言ってすべて着替えさせた。詔で漢に大理寺丞を贈った。
  • 振聲は米脂の人で、自成と同じ県の同姓であった。自成は彼を兄と呼んだが、後に殺した。獻陵を暴こうとしたとき、大きな音が山谷に起こって雷が震い虎が吼えるようだったので、懼れて止めた。