明史卷二百六十二 列傳第一百五十 孫傳庭

孫傳庭(字は伯雅、?–1643年)。代州振武衞の人で、四代にわたり郷試に及第した家に生まれた。沈着剛毅で謀略に富み、陝西巡撫として闖王高迎祥を黒水峪で捕え、関中の群盗をほぼ平定した。兵部尚書楊嗣昌と方略をめぐって対立し、聾を詐ったとして三年獄につながれたが、李自成の勢いが増すと再び起用され、陝西三邊總督・督師として賊にあたった。二度の出師はいずれも長雨で兵糧が絶えて敗れ、潼関の陣中に没した。彼の死とともに関内に堅城は無くなり、「傳庭が死んで明は亡んだ」と評された。享年五十一。

年表(13件)

出自と初任

  • 孫傳庭は字を伯雅といい、代州振武衞の人。父より上四代にわたって郷試に及第した家である。傳庭は容貌が長大で、沈着剛毅、謀略に富んだ。萬厯四十七年(1619年)に進士となり、永城知縣を授けられ、才を認められて商邱に移った。天啟の初めに吏部驗封主事に抜擢され、しばしば遷って稽勲郎中となった。休暇を請うて帰郷し、長く出仕しなかった。

陝西巡撫となり高迎祥を捕える

  • 崇禎八年(1635年)秋、はじめて驗封郎中で起用され、順天府丞に飛び越えて遷った。陝西巡撫の甘學濶が賊を討てないので秦の士大夫が朝廷で騒ぎ、辺境の才を推挙することになって傳庭が用いられ、九年(1636年)三月に交代した。
  • 傳庭は秦に臨むと徴発と期日を厳しくし、すべて軍興の法によったので、秦の人は總督の洪承疇ほどには彼を愛さなかったが、その才は賊を処理するに十分であった。賊首の慗齊王が商雒に拠り諸将が攻めかねていたので、副将の羅尚文に檄して撃ち斬らせた。
  • 当時、関中を乱す賊で名の知れた者は十数人あり、高迎祥が最も強く、拓養坤の党が最も多かった。いわゆる闖王と蝎子塊である。傳庭は方略を立てて自ら盩厔の黒水峪で迎祥を撃って捕え、その偽の領哨の黄龍と總管の劉哲もあわせ、闕下に俘虜を献じた。功を録して秩を一等増された。賊の党与はこれ以後、共に李自成を闖王に推した。
  • 翌年(十年、1637年)、養坤とその一党の張耀文が降ったが、まもなく養坤は叛いて去ったので、その部下に諭して追い斬らせた。惠登相を涇陽・三原で撃つと、登相は西の河南へ走った。賊の馬進忠・劉國能ら十七部が渭南に入ると、追って関を出、さらに河南の兵と合わせて挟撃し、前後に千餘級を斬った。進忠らが再び商雒・藍田を荒らし、叛卒がこれに合流して西安を犯そうとすると、左光先・曹變蛟を遣わして渭南へ追い払い、その頭目の一條龍を降し、脅されて従った者を招き還し、健児を募って残りの賊を撃ち、聖世王・瓦背・一翅飛を斬り、鎮天王・上山虎を降し、また白捍賊の首領数人を殲滅して、関南はやや安んじた。副将の盛畧らを遣わして賊の大天王を寳雞で敗り、賊が山谷に逃げ込むと鳳翔まで追った。他の賊が棧道に出て関を越えて河南を犯そうとすると、軍を還して撃ち、斜谷に逃げ隠れたところをまた大敗させ、その残りの衆を降した。
  • 西安の四衞にはもと屯軍二萬四千、田二萬餘頃があったが、その後、田は豪族に帰し軍は名簿だけになっていた。傳庭は整理して軍一萬一千餘を得、年に屯課銀十四萬五千餘兩、米麥一萬三千五百餘石を収めた。帝は大いに喜んで秩を増し銀と幣を賜った。

楊嗣昌との対立

  • 折しも楊嗣昌が本兵(兵部尚書)として入り、方略を条上した。洪承疇に秦の総督のまま剿務を兼ねさせ、廣東巡撫の熊文燦を總督に用い、四正六隅に分け、馬三に歩七の割合で兵十二萬を計上し、加派を二百八十萬まで増やして百日で賊を平げるという案である。傳庭は書を送って争い、無益であるばかりでなく、部の卒はたびたび潰え民の力は尽きていて命に堪えられまい、どうしても行えば賊は尽きぬうえに害が国家に及ぶ、と数千言を費やした。嗣昌は大いに反発した。
  • 部議では秦の巡撫は一正面を担当し、土着の兵一萬を募って餉銀二十三萬を給し、商雒などを汎守とすることになった。傳庭はそれが役に立たないと知り、帑蔵を□し贖罪金を免じて銀四萬八千を得、馬を買い兵を募って自力で滅賊の備えを整え、部議には従わなかった。
  • 諸巡撫が募兵が定数に達したと報告するなか、傳庭の疏だけが届かなかった。嗣昌は軍法が秦で行われていないと言い、自ら白衣で職を領したいと申し出て帝の怒りを煽った。傳庭は上奏して、もし自分が他の巡撫のように郡縣の民兵を名簿に載せて報告してそれで定数に達したというのなら、自分が先に報告した屯兵ですでに定数に達している、まして募って練った馬歩の軍が一萬を超えている、どうして部議に従わなかったことがあろう、百日の期限も商雒の汎守も自分は勝手に放棄していない、賊を商雒に入れて防げなければ自分の罪を問え、自分が商雒を扼して期限を過ぎても賊を滅ぼせなければ、剿事を誤ったのは自分ではない、と述べた。嗣昌は反論できなかったが、恨みはいよいよ深くなった。傳庭は二度も詔で秩を進められ部の官銜を加えられるはずだったが、嗣昌は抑えて奏上しなかった。

関中の賊を平定する

  • 十一年(1638年)春、賊が漢陰・石泉を破ると、傳庭は援けなかったとされ、加えられた秩を削られた。傳庭は出て商雒を扼した。大天王らが慶陽・寳雞を犯すと軍を還して合水に戦って撃ち走らせ、その二子を獲た。延安まで追撃した。過天星・混天星らが徽・秦から鳳翔へ向かい澄城に迫ると、傳庭は兵を五道に分けて楊家領・黄龍山で撃ち、大破して二千餘級を斬った。大天王は二子が殺されていないと知って降った。
  • 賊が北へ引いて延安を犯すと、傳庭は、鄜州の西と合水の東の三、四百里は荒山と深い谷で賊が入れば自滅すると読み、自ら標兵を率いて中部でその東を遮り、變蛟に檄して慶陽でその西を拒ませ、三水と淳化の間に兵を伏せた。賊が飢えて食を掠めに出ると大いに旗幟を張り鼓角を鳴らして迎え撃った。一日一夜に二百五十里を駆け、賊は大いに驚いて西へ奔ったが、職田荘で伏兵に遭って敗れ、また寳雞へ走って棧道を取ろうとして再び伏兵に大敗し、折れて隴州へ走ると関山道でまた伏兵に挫かれた。三たび敗れて賊の死者は数え切れなかった。過天星・混天星はともに降った。
  • さらに邠と寧の間で賊を追い、陣に踏み込んでその首領を捕らえた。河南の賊、馬盡忠・馬光玉が宛・洛の衆を駆って箕を張るように西へ来ると、傳庭が撃って賊は逃げ返り、また潼関原に伏兵を設け、變蛟が賊を追って伏中に入れた。そして闖王李自成は洪承疇に追われ、卒をことごとく失って十八騎で囲みを破って逃げた。関中の群盗は悉く平げられた。崇禎十一年の冬(1638年)のことである。捷報が届くと帝は大いに喜び、まず澄城の捷を叙して傳庭に部の官銜を加えるよう命じたが、嗣昌はやはり阻んで奏上しなかった。

十三部の賊と熊文燦の招撫

  • 当時、總理の熊文燦は湖廣で招撫を主とし、賊の張獻忠はすでに降っていたが、河南の賊だけは元のままであった。羅汝才・馬進忠・賀一龍・左金王ら十三部が西に潼関を窺い、営を連ねること数十里に及んだ。傳庭は「天下の大賊はことごとくここにいる。我らがその西を撃ち總理がその東を撃てば、賊は降らねば滅びる。この賊が平げば天下に賊は無くなる。獻忠など狙って伏せていても何もできまい」と計った。そこで兵を東へ引いて閿鄉・靈寳の山間で賊を大敗させ、その営を貫いて東へ抜け、また東から西へ返した。賊はひどく窮して文燦の招降の手諭を持ち出し、いま明日にも降ると上言した。傳庭は「お前たちは日々熊公のもとに就いて招撫を口にしながら、日々堡を攻め寨を屠って止まない。偽りだ。降るならすぐ甲を解いて来い。理屈をつけるならそれは真の降伏ではない。明日は進兵する」と言った。翌日、甲を着けて出たが、途中で文燦の檄を得た。「私の招撫の功を妬むな」とあった。さらに進むと本兵嗣昌の手書きを得たが、これも同じ内容であった。傳庭は不本意ながら兵を撤して還った。しかし賊はついに招撫に応じず、移って商雒を窺った。文燦は悔いて傳庭に挟撃を約し、属吏の王文清らが三度戦って三度これを敗り、賊は内鄉・淅川へ逃げ去った。
  • 傳庭はたびたび大功を建て、その将校は何度も旨を奉じて優叙されるはずであったが、嗣昌は努めて抑えて奏上しなかった。傳庭が懇請してその名簿を部に上げると、嗣昌は「待て」と言うばかりであった。

入衛・失聴・下獄

  • 十月、京師が戒厳となり、傳庭と承疇が入衛に召され、傳庭は兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢されて總督の盧象昇に代わり諸鎮の援軍を督し、剣を賜った。傳庭が兵を提げて近郊に至ったが、嗣昌と協調せず、また中官の高起潛と衝突し、旨を降して厳しく責められ、京師に朝することができなかった。承疇は郊外で労われ、さらに拝謁を命じられたので、傳庭は不満を抱かずにいられなかった。
  • ほどなく嗣昌は承疇を薊の総督とし、入援した秦兵をすべて留めて薊遼を守らせようとした。傳庭は言った。秦の軍は留めてはならない。留めれば賊の勢いが張って辺境の益にならず、賊に代わって兵を撤するようなものだ。秦の軍は妻子がみな秦にあり、兵は日々賊を殺すことを利としている。長く辺境に留めれば騒ぐか逃げるかして、我が方の用をなさず必ず賊の用となる。民を駆って賊に従わせることになる。安危の機は察しなければならない、と。嗣昌は聴かず、傳庭は争ったが通らず、鬱屈に堪えず耳が聞こえなくなった。
  • 傅庭ははじめ命を受けたとき、近年の辺事の破綻は計画の誤りによるものであり、事が終わったら面と向かって大計を決したいと上疏していた。
  • 翌年(十二年、1639年)、帝は傳庭を保定・山東・河南軍務の總督に移した。戒厳が解けて拝謁を請う疏を出すと、嗣昌は大いに驚き、傳庭が自分を陥れるつもりだとして、来た使いを叱って疏を突き返した。傳庭は怒り、病と称して退官を乞うたが、嗣昌はさらに、病は口実で本当は聾ではないと弾劾した。帝は怒って庶民に落とし、巡撫の楊一㒞に真偽を調べさせた。一㒞が本当の聾で仮病ではないと奏すると、一㒞まで獄に下した。傳庭は長く繋がれて処分を待った。朝廷じゅうがその冤を知りながら誰も言わなかった。獄中三年に及んだ。

再起と柿園の役

  • 文燦・嗣昌が相次いで敗れ、この時期に闖王李自成はすでに河南を攻め破り、開封を犯し、宗龍を捕え、唐王を殺していた。兵は散り賊はますます横暴になった。帝は傳庭の言葉を思い出し、朝士で推薦する者もいよいよ増えた。
  • 十五年(1642年)正月、傳庭は兵部右侍郎として起用された。帝は自ら文華殿に出て賊を剿し民を安んじる策を問い、傳庭が堂々と述べると、帝は長く嘆じ、宴を賜って手厚くもてなし、禁旅を率いて開封を援けるよう命じた。開封の囲みはすでに解け、賊が陝の総督汪喬年を殺したので、帝はただちに傳庭にその後任を命じた。
  • 傳庭は諸将を関中に大集し、援剿總兵の賀人龍を縛って麾下に座らせ、罪を数え上げて斬った。開縣で騒いで引き上げ、猛将を孤軍で失敗させて獻忠・汝才を檻から出す結果を招いたこと、また敵に遇うとまっ先に潰えて新蔡・襄城で相次いで二人の総督を失わせたことを責めたのである。諸将で顔色を変えぬ者はなかった。傳庭は人龍を誅して三辺に威を振るい、日夜軍を治めて賊を平らげる策を練った。
  • しかし賊はすでに再び開封を囲んでいた。詔で御史の蘇京が延・寧・甘・固の軍を監し、傳庭に関を出るよう促した。傳庭は兵は新募で使えないと上言したが、帝は聴かなかった。やむなく出師し、九月に潼関に至った。大雨が十日続いた。自成が馬家口で河を決して開封に灌ぎ、開封はすでに陥ちていた。
  • 傳庭が南陽へ向かうと自成は西行して秦の軍を迎え撃った。傳庭は三重の伏兵を設けて待ち、牛成虎に前軍、左勷に左翼、鄭嘉棟に右翼、高傑に中軍を率いさせた。成虎がわざと敗走して賊を誘い、賊が伏中に奔り込むと成虎は兵を返して闘い、高傑・董學禮が突起して翼を成し、左勷・鄭嘉棟が左右から横撃した。賊は潰えて東へ走り、千餘を斬り、三十里追って郏縣の塚頭で追いついた。賊は甲・武器・軍需を道に棄て、秦兵はその利を追った。賊は我が軍が乱れているのを窺うと兵を返して乗じ、左勷・蕭慎鼎の軍が潰え、諸軍もみな潰えた。
  • 副将の孫枝秀は馬を躍らせて賊を追い数十騎を撃ち殺したが、賊兵に囲まれ、突き回っても出られず、馬が倒れて捕えられた。まっすぐ立って屈せず、刃を突きつけられても目を見開いて答えなかった。一人が「これは孫副将だ」と言い、そのまま殺された。参将の黒尚仁もまた捕えられ、屈せずに殺された。軍は数千が覆り、材官・小将で没した者は張暎奎・李棲鳯・任光裕・戴友仁以下七十八人。賊は失った馬の倍を獲た。
  • 傳庭は鞏へ走り、孟から関に入った。慎鼎を捕えて斬り、左勷には馬二千を出させる罰にとどめた。勷の父の左光先のゆえに勷を宥したのである。この戦いは大雨で糧が届かず、士卒は青柿を採って食い、凍え飢えたので大敗した。豫の人がいわゆる「柿園の役」である。

潼関での再建と最期の出師

  • 傳庭は敗れて陝西に帰ると、潼関を守って京師の上流を扼し、かつ我が軍は新たに集めたばかりで速戦は不利だと考えた。そこでいっそう勇士を募り、屯田を開き、武器を修め粟を積み、三家に壮丁一人を出させ、火砲や甲・武器を載せた火車三萬輛を造った。戦えばこれを駆って拒馬とし、止まれば環らせて自衛とする。工事の督励は苛烈で夜を日に継いだので、秦の民は堪えられなかった。加えて関中は連年の飢饉で、大軍を駐めても餉が乏しく、士大夫は傳庭のやり方を厭い、法が厳しいので秦にいてほしくないと思って、朝廷で「秦の総督は賊を弄んでいる」と騒ぎ、また「秦の総督が関を出なければ召し捕りが来るぞ」と脅し文句を交わした。
  • 翌年(十六年、1643年)五月、河南・四川の軍務兼督を命じられ、まもなく兵部尚書に進んで督師と改称し、山西・湖廣・貴州・四川および江南北の軍務の督を加えられ、剣を賜り、出戦の督促はいよいよ急になった。傳庭は足を踏み鳴らして「どうしろというのだ。私は行けば還らぬと分かっている。しかし大丈夫がふたたび獄吏に対せようか」と嘆じた。しばらくして、やむなく再度の出師を議した。
  • 總兵の牛成虎が前鋒、高傑が中軍、王定が官撫民として延・寧の兵を率いて後詰めとなり、白廣恩が火車営を統べ、左良玉に檄して汝寧へ赴かせ挟撃することとした。当時、自成はすでに河南・湖北の十餘郡を占め、新順王と自称し、官を置き戍を設け、襄陽に営して住み、内浙から商雒を窺おうとして、荆襄の兵をすべて発して汜水・滎澤に集め、竹を伐って筏を結び、人ごとに葫蘆三つを佩びて河を渡ろうと謀っていた。傳庭は兵を分けて防いだ。
  • 八月十日、潼関を出師して閿鄉に宿営した。二十一日、陝州に進み、河南の諸軍に檄して河を渡って進剿させた。九月八日、汝州に進むと、偽の都尉四天王李養純が降り、賊の内情を告げた。諸賊の老営は唐縣にあり、偽の将吏は寳豐に屯し、自成の精鋭はことごとく襄城に集まっている、と。そこで寳豐で賊を破って偽の州牧陳可新らを斬り、唐縣を衝いて破り、家族をほぼ殺し尽くしたので賊は営じゅうが泣いた。転戦して郏縣に至り、偽の果毅将軍謝君友を捕え、賊の坐纛の尾を斫って、自成をあやうく捕えるところであった。賊は襄城へ奔り、大軍は進んで襄城に迫った。賊は懼れて降ることを謀ったが、自成は「畏れるな。私は王を殺し陵を焼いた罪が大きい。しばらく一死を決して戦い、勝てなければ私を殺して降っても遅くはない」と言った。
  • しかし大軍はこのころみな露宿しており、賊と長く対峙するうちに雨で道がぬかるみ、糧車が前に進めず、士は飢えた。郏を攻めて破り、馬と驢馬を獲て食ったが、たちまち尽きた。雨は七日七夜やまなかった。後軍が汝州で騒ぎ、賊が大挙して至り、流言が四方に起きたので、やむなく軍を還して糧を迎えに行き、陳永福を殿として留めた。前軍が動くと後軍が乱れ、永福が斬っても止められなかった。
  • 賊が南陽で追いつき、官軍は返して戦った。賊の陣は五重で、飢民を外に置き、次に歩卒、次に馬軍、その次に驍騎、老営と家族を内に置いていた。戦ってその三重を破ったが、賊の驍騎が決死で闘い、官軍の陣がやや動いた。廣恩の軍で火車を率いる者が「軍は敗れた」と叫んで轅を外して逃げ、車が傾いて道を塞ぎ、馬は軛に引っかかって進めなくなった。賊の鉄騎はこれを踏み越え、歩兵の賊は白い棓を手にして遮り撃ち、当たった者は兜ごと砕けた。自成は営を空にして一日一夜追い、官兵は狂ったように四百里走って孟津に至った。死者は四萬餘、失われた武器・輜重は数十萬に上った。
  • 傳庭は単騎で垣曲に渡り、閿鄉から渡った。賊は督師の坐纛を獲て、勝ちに乗じて潼関を破り、官軍を大敗させた。傳庭は監軍副使の喬遷高とともに馬を躍らせ大呼して陣中に没した。廣恩は賊に降った。傳庭の屍はついに見つからなかった。傳庭が死んで、関より内には堅城が無くなった。

家族の最期と後の評

  • はじめ傳庭が出師するとき、自ら死を覚悟し、後妻の張夫人に「お前はどうする」と語った。夫人は「丈夫は国に報いるのみです。私のことは案ずるな」と答えた。西安が破れると、張氏は二人の娘と三人の妾を率いて井戸に身を投げ、八歳の子の世寧には急いで賊を避けよと言って追いやった。子は牆を越えて民家に落ち、一人の老翁が収め養った。長子の世瑞はこれを聞いて足を腫らして秦に入り、井戸の中に夫人の屍を得たが顔は生けるがごとくであった。老翁はその弟の世寧を返し、兄弟は相扶けて還った。道で見た者は、知る者も知らぬ者もみな涙を落とした。
  • 傳庭が死んだ時は五十一歳であった。傳庭の二度の出師はいずれも雨で敗れたのである。傳庭は死んでいないと言う者があり、帝も疑って、贈官も廕も与えなかった。傳庭が死んで明は亡んだ。

史論

  • 賛に言う。流賊が中原に蔓延したとき、賊の鋒を防ぐ頼みは秦の兵だけであった。宗龍・喬年・文岳はいずれも力を奮って賊の鋒に当たったが、ついに潰え敗れた。これは天運であって、才が任に堪えなかったのではない。傳庭に至っては忠を尽くし力を尽くし、才も三人の上を行ったのに、楊嗣昌に阻まれ、部下の功績まで多くは握り潰されて上聞に達しなかった。功を忌み肘を掣くその誤国は甚だしい。まして詔書で出戦を急がせたために南陽の一敗を招き、賊の勢いはいよいよ張った。明末の滅亡は実にここに決したのであって、すべてを天意に押しつけられようか。