明史卷二百六十一 列傳第一百四十九 劉之綸

出自と抜擢

  • 字は元誠、宜賓の人。家は代々農を務めた。之綸は少くして父兄に従って力田し、あいまに薪樵を刈って市に売り、帰っては書を学んだ。その座右に「必ず聖人と為らん」と銘した。里中はこれによって之綸を劉聖人と号した。
  • 天啟初(1621年)郷試に挙がる。奢崇明が反すると策を監司に干して賊の帰路を扼せと言ったが、監司は用いることができなかった。崇禎元年(1628年)進士に第し庶吉士に改まる。同館の金聲および客としていた申甫と三人で友となり、単輪火車・偏廂車・獸車を造り、木を刳って西洋の大小砲を作った。司農の銭は費やさなかった。
  • 翌年(二年、1629年)冬、京師が戒厳となる。聲が上書して召見を得、之綸と甫を薦めた。帝はただちに之綸を召す。之綸は兵を語ること了了として口辨であり、帝は大いに悦んだ。甫に京營副總兵を授けて金十七万を資して召募させ、聲を御史に改めてその軍を監させ、之綸には兵部右侍郎を授けて尚書閔夢得の副として京營戎政を協理させた。こうして之綸は新進の身で賓賓として一挙に卿貳に躋ったのである。
  • 初め、正月元日に黒気が東北から西方に亘って起こった。甫は見て大いに驚き、趨って之綸・聲に語った。天変がこのようだ、君たちは知っているか。今年は京城の下で喋血することになるだろう、畏るべきことだ、と。聞く者はみな笑った。

遵化娘娘山の戦死

  • 冬十一月四日、大清兵が遵化を破り、十五日に壩上に至り、二十日に都城に薄った。北から西へ回り、都人が城上から望むと雲の万許片が風に馳せるようで、須臾にして過ぎ、良郷を克った。盧溝に還り、夜に甫の一軍七千餘人を殺した。黎明に掩殺し、大帥の滿桂・孫祖夀を殺し、黒雲龍・麻登雲を生け捕って去った。
  • 之綸は「元日の言が験れた」と言い、出陣を請うた。兵がないので京營の兵を請うたが許されず、關外の川兵を請うたがこれも許されず、召募を議して一万人を得て出発した。通州に抵ると永平はすでに陥ち、大雨雪であった。軍機を七たび奏したが報ぜられない。
  • 翌年(三年、1630年)正月、師は薊に次した。このとき大清兵と蒙古諸部は十餘万と号して永平に駐まり、諸々の勤王の軍数万は薊にあった。之綸は總兵馬世龍・呉自勉と約し、薊から永平へ趨いて牽制して動かさぬようにし、自ら兵を率いて八路から遵化を攻めることとした。石門から白草頂に至り、遵化を距てること八里の娘娘山に営した。世龍・自勉は約に赴かなかった。
  • 二十二日、大清兵が永平から三屯營へ趨き、驍騎三万が山上の軍を望み見て縦撃した。之綸が砲を発すると砲が炸裂し、軍営は自ら乱れた。左右は陣を結んで徐々に退き後図を為すよう請うたが、之綸は叱して言った。多言するな。私は国恩を受けている、死ぬだけだ、と。厳しく鼓して再び戦い、流矢が四方から集まる。之綸は佩びていた印を解いて家人に付し、「これを持ち帰って天子に報ぜよ」と言ってついに死んだ。一軍はみな哭して営を抜き、野戦してみな死んだ。屍が還ったとき矢が顱に飲み込まれて抜けず、聲が歯で嚙んで出し、その家人に授けた。
  • 初め、講官の文震孟が入都したとき、之綸と聲が往って見え、震孟は持重を教えた。之綸が命を受けて師を視ることになったとき、驟かに貴くなったので廷臣がこれを抑えた。震孟は人をやって、侍郎を辞して科銜に易えて行くのがよいと諷したが、聴かなかった。出発してのち通州の守る者は納れず、雨雪の中を古廟に宿った。御史董羽宸がその逗留を劾した。之綸は言った。小人の意は忌むもので、事があれば委卸し、事がなければ議論する。ただ一侍郎という点から起こった見方に過ぎぬ。臣の今の官を削って骸骨を賜わりたい、と。許されなかった。
  • 戦死すると天子はその忠を嘉し、優遇して恤み兵部尚書を贈ろうとしたが、震孟が「死綏は分である。侍郎は尊くないわけではない」と止めたので、贈らず、一祭半葬を賜って一子を任じた。之綸の母は老い二子は幼く、貧しくて柩を返せなかったので、朝に請うて駅を給されて還った。久しくして尚書を贈った。のち十五年、聲が難に死んだ。