明史卷二百六十 列傳第一百四十八 髙斗樞

長沙兵備と湖南の平定

  • 字は象先、鄞の人。崇禎元年(1628年)進士、刑部主事を授かる。巡撫の耿如杞の獄を議したことに坐して同列四人とともに詔獄に下されたが、まもなく復官し員外郎に進んだ。
  • 五年(1632年)荆州知府に遷り、久しくして長沙兵備副使に擢せられた。楚郡のうち湖北にある者はことごとく賊禍に罹り、勢いは湖南に及ぼうとし、臨・藍・湖湘のあいだで土寇が蜂起した。長沙には老弱の衛卒五百しかなく、そのうち二百は攸縣に戍し、城庫も雉堞もことごとく圯れていた。斗樞は至って飛楼四十を建て、大いに守具を修めた。臨・藍の賊の船二百餘が衡・湘から城下に抵ったが、十餘日相拒んで却き去った。転じて袁州を攻めたので都司の陳上才を遣ってその後を躡ませると、賊もまた解き去った。まもなく乱賊の劉髙峰らを撃殺して余衆を撫定した。詔してその功を録した。
  • 巡撫の陳睿謨が臨・藍の寇を大征したとき、斗樞は南面を担当し、大小十餘戦で賊はことごとく平いだ。詔して銀幣を賚された。

鄖陽の守り

  • 十四年(1641年)六月、按察使に進んで鄖陽に守を移した。鄖は寇を被ることすでに十載、属邑は六つあるが居民は数千に足らず、数百里は荆榛であった。撫治の王永祚は襄陽が急なので師を移してここに鎮した。
  • 斗樞が至って六日目に、張獻忠が陝から東へ引いた。斗樞は知府の徐啓元とともに遊擊の王光恩およびその弟の光興を遣って道を分けて扼させ、戦えばしばしば捷ち、賊は敢えて犯さなかった。
  • 光恩とは均州で降った渠の小秦王である。初め張獻忠・羅汝才らと賊であったが、獻忠・汝才が降ってまた叛くと、均州の五営は討たれるのを懼れて自ら疑い、また獻忠が強いのでその併呑を慮り、光恩は衆を斂めて要害に拠って獻忠を拒んだ。久しくして稍々颺げ去る者が出ると、光恩もまた去り、ついで復び降った。光恩はその下を善く用い、下もまた喜んで用いられた。斗樞はその誠を察して招いて郡守に入れた。当時、斗樞・啓元は謀に善く、光恩は戦に善く、鄖城は危うくして復び全きを得た。
  • 十五年(1642年)冬、李自成が襄陽・均州を陥し、鄖陽を四日攻めて去った。翌年春また来攻して十餘日克てず、退いて楊溪に屯した。五月、斗樞は遊擊の劉調元を城に召び入れ、旬日のあいだに賊三千餘を殺した。自成の將が来攻したがついに克てずに去った。そこで光恩に均州を復させ、調元に光化を下させ、自ら将士を率いて榖城を復して襄陽を襲おうとしたが、孫傳廷の敗を聞いて師を旋した。均州はまた賊の有となった。
  • 十七年(1644年)正月、自成が將の路應標らを遣って三万人で鄖を攻めた。斗樞は人を均州に入れてその蓄積を焼いたので、賊は食を乏しくして退いた。当時、湖南北の十四郡はみな陥ちて、独り鄖だけが残っていた。
  • 十五年冬に撫治の王永祚が逮えられて以来、連ねて李乾徳・郭景昌を代わりに命じたが、路が絶えて至れず、中朝は鄖がすでに陥ちたと思って撫治を設けなくなっていた。十六年(1643年)夏、斗樞が兵を請う疏を上げてはじめて鄖が存することを知り、衆議は斗樞に任せようとしたが、陳演が斗樞と隙があったので、啓元を右僉都御史に擢して任じ、斗樞には太僕少卿を加えた。しかし路が阻まれてこれも達しなかった。
  • その年の二月、朝議で漢中巡撫を設けて川北の軍務を兼督させることになり、斗樞を右副都御史に擢して往かせたが、朝命はやはり達しなかった。三月に至ってはじめて太僕の命を聞き、ただちに軍事を啓元に付した。七月に北都の変を聞き、あわせて漢中の命も聞いたが、地はすでに失われて往けなかった。
  • 福王が立って斗樞を湖廣巡撫に移し何騰蛟に代わらせ、さらに道路が通じないので王驥に改め用いたが、斗樞はいずれも聞かなかった。国変ののち数年して卒した。啓元・光恩もみな功名をもって終わった。