明史卷二百六十 列傳第一百四十八 余應桂

言官として周延儒を劾す

  • 字は二磯、都昌の人。萬厯四十七年(1619年)進士。武康・龍巖・海澄の三縣の知縣を歴任。崇禎四年(1631年)徴されて御史を授かり、戸部尚書の畢自嚴の朋比を劾し、殿試の読巻で陳于泰を第一に取ったことを劾した。于泰は首輔の周延儒の姻戚である。また延儒が孫元化の參貂を納れ、楊鶴の重賂を受けたと劾した。帝はちょうど延儒を眷していたので應桂を責めた。まもなく賊が登州を陥して元化が捕らえられたので、應桂は再び疏して延儒を劾した。帝は怒って三秩を貶して視事させ、應桂は疾と称して帰った。
  • 七年(1634年)還朝し、出て湖廣を按じ、承天に居守した。贖鍰十餘万を捐じて壮士を募り、城を繕い器を治めたので、賊は敢えて献陵に逼らなかった。帝は聞いて嘉し、期が満ちるとさらに一年巡らせよと命じた。贖鍰一万五千を贈って盧象昇の軍需を助け、属城の失事を奏報するのに具さに実をもってしたので、帝はこれによって巡撫の王夢尹が詐であることを知り、ますます應桂を信じた。期が満ちてまた一年巡らせよと命じ、十月にはただちに應桂を右僉都御史に擢して夢尹に代わらせた。

湖廣巡撫と熊文燦弾劾

  • 当時、諸監司の袁繼咸・包鳳起・髙斗樞らはすでに湖南の群賊を削平していたが、江北の賊勢は日ごとに熾んで、諸將は捷を奏しても大きな痛手を与えられなかった。帝は熊文燦を總理に命じたが、文燦は撫を主とした。
  • 翌年、その渠の劉國能が降り、張獻忠・馬進忠は西して潼關に走った。馬光玉・賀一龍・李萬慶・順義王・九條龍の衆十餘万が麻城・黄安に萃まった。應桂は光玉・一龍に降を諭したが、至らぬうちに將を遣って順天王らを黄福店に撃ったので、賊は黄安に走った。文燦が麻城に至り、應桂が協撃を請うたが従わない。賊はまた東して江北に走り、左良玉に遏されて折れて廣濟・蘄水に走った。文燦は諸道の兵に檄して茶山で賊を合撃したが、賊は應桂の分担する地に逸れた。文燦はそこでその後期を劾して軍を誤ったとし、兵部尚書の楊嗣昌は、應桂がかつてその父の鶴を劾したことから、これを逮えるよう奏した。
  • 應桂は撫剿の始末を陳べて自らに罪がないことを明らかにし、あわせて文燦を詆った。その言うところはおよそ次のとおりである。
  • 正月に劉國能の撫を議し始めたとき、その党の李萬慶ら諸大賊はことごとく泌陽・棗陽に走り、文燦と良玉はともに徳安にいた。臣は兵勢がまさに盛んなのだからこれに乗じて追剿すべきだと考えたが、文燦は良玉の諸軍をことごとく信陽に赴かせて馬進忠を剿させた。臣は、進忠は小寇で勝っても武ではないと言った。この一機を失って以来、賊は西へ走り文燦は東へ行き、張獻忠に榖城を攻め陥させて撫を要求させ、李萬慶ら五部に余燼を収めさせて勢いを復び振るわせた。豫・楚の患いはこうして文燦が諫めに愎ったことから生じたのである。
  • 賊が西に潰えたのちは上聞を遮飾して妄りに斬級を報じた。自ら長ずるところと恃むのは火砲・火攻だけで、経過する州県で夫を用いること八百に至って死亡が道に載ちたのに、一度も試みたのを見ない。
  • しかも文燦の賊を弁ずる策は「先に撫して後に剿す」というが、茶山で効なく麻城でも効がなく、ただ招撫の旗が道に絡繹するのを見るばかりであった。賀一龍を招く使いを遣れば使者は殺され、李萬慶を招く使いを遣れば鹽椒を餽り魚肉を運んで通市したので、賊はかえってそれに乗じて焚掠し、一人も帰順した賊を見ない。天下にこのような撫法があろうか。
  • 一切の軍需はことごとく経過する有司から取り、名づけて借辦という。城市は空虚となり子遺も絶えた。三月に麻城に至ったとき、民は淫掠に堪えかねてその署を焼こうとし、ようやく踉蹌として走った。麻城は文燦の壻の家のあるところである。戚里にしてこうなら他は知れよう。三月に蘄水にいたとき、その兵が郷民を殺して捷を報じ、民家が環り哭いたのに、ついに一兵も治めなかった。蘄水は文燦の家園である。郷里にしてこうなら他は知れよう。
  • こうして捷報が日ごとに張るほど寇の勢いはいよいよ熾んになり、十三家の賊は南陽・汝寧を蹂躙して無人の境を履むようであった。文燦は宛・汝に駐まって久しいのに調度を聞かない。天下にこのような剿法があろうか。
  • 獻忠は榖城で亡命を招納し、馬を買い器を置き、人々がその叵測を知っているのに、文燦はかえってこれを借りて前茅とし、官を遣って調えたが、応じないばかりか餉を解する官を留め、湖廣の總兵を求め、いまや浮橋を造って漢水に跨がらせている。文燦は前には誇張して功を叙し、後には掩匿して報じない。欺君と言わずにいられようか。總理の大柄を顛蹶の耄夫に与えることを、臣はその可なるを知らない、と。
  • 帝は納れず、逮えて下獄した。初め應桂は文燦に書を贈って「獻忠は必ず反する。未発のうちに図るべきだ」と言ったが、その書は獻忠の邏者に得られた。獻忠は牒を鄖陽巡撫の戴東旻に騰らせ「撫軍が私を殺そうとしている」と言った。東旻はこれを文燦に聞し、文燦は再び應桂を糾した。應桂は再び疏して弁じたが、帝もまた納れず、應桂はついに遣戍された。まもなく獻忠が果たして反したので、廷臣が交々章して應桂を薦めた。

潼關の失陥と最期

  • 十六年(1643年)、應桂は兵部右侍郎に起用された。十月、潼關が陥ち、帝が大臣を召して問うと、陳演が「賊が關中に入れば必ず子女玉帛に恋々とする。虎が陥穽に入ったようなものだ」と言った。應桂はこれを叱して「壮士も健馬もみな關西から出る。賊がこれを得れば必ず長駆横行する。大臣たる者が面と向かって謾ってよいのか」と言い、演は股栗して色を失った。
  • 十一月、督師の孫傳庭が戦没し、應桂に右僉都御史を兼ねさせて往って代わらせた。應桂は兵もなく餉もないので、帝に見えて泣いた。帝はただ京軍千人を遣って護行させ、御用銀一万両・銀花四百・銀牌二百・蟒幣二百・雑幣はその倍を給して、軍前の賞功の用とするだけであった。
  • 應桂は命を受けてから日夜悲しみ疑い、山西に至ろうとしたが偽官が充斥して逡巡して前に進めなかった。帝は逗遛を責めて職を奪い、新たに擢した陝西巡撫の李化熙に代わらせたが、化熙もまた進めなかった。まもなく京師が陥ち、應桂は家居して出ず、久しくして難に死んだ。