明史卷二百六十 列傳第一百四十八 邵捷春

四川の守りと嗣昌との対立

  • 字は肇復、侯官の人。萬厯四十七年(1619年)進士、累官して稽勲郎中。崇禎二年(1629年)四川右參政として出て川南に分守し、天全六番の髙・楊の二氏を撫定した。浙江按察使に遷ったが大計に坐して貶され、久しくして四川副使に起用され、十年(1637年)秋に成都に抵った。
  • 時に秦の賊がすでに蜀に入り、巡撫の王維章・總兵の侯良柱は衆を挙げて北で拒ぎ、城中には屯田軍と蜀府の護衛軍しかなく、人情は恇懼していた。㨗春は門を開いて賊を避ける郷民を納れた。中尉の奉鐟が賊を勾いて城下に抵らせると、㨗春は御史の陳廷謨とともに奉鐟を禽えて繫ぎ、市人を募り廃將を起こして固く守った。賊が去ると蜀王がその功を疏した。
  • 維章が罷めて傅宗龍が代わると、㨗春に監軍を命じ、總兵の羅尚文とともに賊を撃たせた。翌年、尚文および安錦副使の吴麟徴が賊の過天星らを大破し、㨗春は右參政に進んでなお監軍。
  • 十二年(1639年)五月、宗龍が入って中樞を掌ると、㨗春を右僉都御史に擢して代わらせた。時に張獻忠・羅汝才はすでに叛き、秦に入ろうと謀ったが、秦兵が興安で扼したので、興山および蜀の太平を犯し、ついで大寧を窺った。㨗春は副將の王之綸・方安國を遣って道を分けて扼させ、國安は連破し、賊はまた秦・楚に還り入った。
  • 十月朔、楊嗣昌が襄陽で誓師し、蜀軍に檄して節度を受けさせた。嗣昌は、楚の地は広衍で賊を制しにくいから駆って蜀に入れれば、蜀は険阻で賊は逞しくできず、蹙めれば全勝できると考えた。また蜀の重兵が険を扼せば賊が還って楚に毒すると慮り、蜀の精鋭一万餘を調えて己の用とした。蜀中の卒はこれよりいよいよ罷弱で支えるに足りなくなった。
  • 㨗春は憤って「令甲では一城を失えば巡撫が坐せられる。いま蜀を賊に委ねるのは、督師が私を殺すのだ」と言い、争ったが得られなかった。

夔門・大昌の失陥と獄死

  • こうして汝才・惠登相は興山・遠安から大寧・大昌を犯し、獻忠も西して太平に至った。翌年二月、左良玉が獻忠を瑪瑶山で大破し、他の將の張應元・張令らがまたしばしば敗った。獻忠は興・歸の山中に逃れたが、久しくして復び振るい、汝才が寧・昌に入った故道を通って西へ走った。
  • 初め汝才が寧・昌にあったとき、江を阻まれて諸將の劉貴・秦良玉・秦翼明・楊茂選らに拒まれて渡れなかったが、獻忠が西して合すると、貴らは戦ってみな却けられ、賊は江を渡って萬頃山・苦桃灣に営し、その別部は紅茨崖・青平砦に営した。歸・巫のあいだは大いに震えた。
  • 嗣昌は夷陵に上って㨗春に夔門を扼せよと檄した。蜀の大寧・大昌は楚の竹溪・房縣に界し、三十二の隘口がある。嗣昌は兵力を厚く集めて専ら夔を守り、寧・昌を棄てて賊に噉わせ、官軍でこれを環攻しようとした。㨗春は「隘口を棄てて守らぬのは賊を戸内に延き入れることだ」と言い、楊茂選および覃思岱らを遣って關を出て分守させた。二將は相得ず、思岱が潜かに茂選を殺した。㨗春はその衆を兼統させたが、その衆は相率いて去り、賊が隘に入ると守る者は潰えた。賊は夜に夔關を斬り、将士は大いに驚いて潰え、新寧・大竹はみな陥ちた。
  • 汝才・登相は巴霧河を越えて開縣を陥したが、鄭嘉棟・賀人龍に破られた。汝才は小秦王・混世王とともに東へ奔り、登相だけが開縣を過ぎて西へ向かった。人龍および李國奇がまた西へ追い、汝才らは興山に遁れ還ってしばしば挫かれた。たまたま嗣昌が招降の令を下したので、小秦王・混世王はみな降り、ただ汝才だけが逸れ去った。
  • 嗣昌は楚の地に賊がなくなったのを見て、八月の終わりに師を率いて蜀に入った。こうして群賊はことごとく蜀中に萃まった。
  • 当時、㨗春は弱卒二万を提げて重慶を守り、頼りとするのは秦良玉・張令の軍だけであった。まもなく秦の師が譟いで西し、楚將の張應元らが夔州の土地嶺で敗績した。
  • そこで㨗春は、大昌の上馬渡・中馬渡・下馬渡は水が浅く地が平らで持久しがたいとして、水寨の観音巖を扼して第一の隘とし、部將の邵仲光に守らせ、夜叉巖・三黄嶺・磨子巖・魚河洞・下涌の諸処には各々三四百人ずつ分けて守らせた。萬元吉は兵を分ければ力が弱まると憂えたが、㨗春は聴かなかった。
  • 九月、獻忠が突いて仲光の軍を敗り上馬渡を破った。元吉は急ぎ諸將に檄して分かれて邀えさせ、また張奏凱に浄壁に屯させ、㨗春は二將の羅洪政・沈應龍を遣って助けさせた。十月、獻忠が浄壁を突き、ついに大昌を陥して開縣に屯した。良玉と令の両軍はみな覆った。賊は行けば哨探し、止まれば馬を息ませて糧を抄した。關隘の偵候は明らかでなく、防軍は時に戍所を遠く離れたので、賊は隙に乗じて無人の境を過ぎるようであった。
  • 嗣昌は仲光を収めて斬り、上疏して㨗春の失事を劾した。㨗春は兵を収めて梁山を扼した。時に登相はすでに帰正しており、汝才がまた獻忠と合したが、梁山は河が深くて渡れないので、開縣から西へ達州に走った。㨗春は綿州に退保して涪江を扼したが、賊は疾く走って劍州を陥し、ついで廣元へ趨き、間道から漢中に入ろうとしたが秦兵に扼され、また巴西へ走った。應元の諸軍が梓潼で邀えて戦い、小しく利があったがのち衄した。蜀將の曹志耀らが力戦して却けたが、降將の張一州・張載福が陥陣して死に、涪江の師はついに潰え、賊は綿州を屠った。
  • 㨗春は成都に帰り、賊は成都に逼った。十一月、㨗春を逮える使者が至り、軍事を代わりの廖大亨に付して去った。㨗春は人となり清謹で、蜀を治めて恵政があったので、士民の哭き送る者は道に載ち、舟が行けぬほどで、競って散官の旗を逐った。蜀王が疏して救おうとしたが聴かれず、巡按御史に敕して官を遣って京師に送らせ、下獄して死を論ぜられた。㨗春は脱れられぬと知り、翌年八月に薬を仰いで獄中で死んだ。福王のとき官を復し、兵部右侍郎を贈られた。