出自と陝西總督・督師
- 永城の人。萬厯四十七年(1619年)進士。崇禎初に山東右參政を歴任し、事に坐して陝西副使に謫された。九年(1636年)寧夏の兵変で、啓睿は巡撫の王楫を殺した首悪六人を捕えて斬り、軍中は大いに定まった。再遷して右布政使、關南に分守し、巡撫の孫傳庭に従って賊を討った。
- 十一年(1638年)冬、右僉都御史を拜し、傳庭に代わって陝西を巡撫した。年ごとに旱が続いて民はますます盗となり、長武・環・白水・長安・臨潼・咸陽と、賊の起こることは蝟の毛のようであった。
- 十三年(1640年)、督師の楊嗣昌の薦めで兵部右侍郎兼右僉都御史に擢せられ、鄭崇儉に代わって陝西三邊の軍務を總督して賊を討った。翌年、嗣昌が死ぬと啓睿に兵部尚書を加えて督師と改称させ、嗣昌に代えて陝西・湖廣・河南・四川・山西および江南北の諸軍をことごとく督させ、なお陝西三邊の軍務を兼ねて總督させ、剣と敕印を嗣昌のときと同じく賜った。
- 啓睿は河西副使に謫されて以来しばしば遷ったがみな陝西の内であり、実は庸才であった。督撫として督師の期会を奉じるうちは謹慎で功も過もなかったが、督師となって任が重く専制するようになると、なす術を知らなかった。
開封の救援と朱仙鎮の潰敗
- 啓睿は命を受けて潼關を出、承天から荆州の嗣昌の軍に赴こうとした。湖廣巡按の汪承詔が「大寇は河南にいる。荆襄は幸い警が息んでいるので大軍を煩わすに及ばぬ」と言って漢津の船をことごとく匿した。啓睿は至って五日渡れず、折れて鄧州に向かったが、州人は門を閉じて詬った。内郷を過ぎると長吏が糴を閉じ、軍は荒山のあいだを行き、馬贏を割いて野草で燎き、士は啗っても飽きなかった。
- このとき李自成はすでに洛陽を陥して開封を囲み、衆七十万。啓睿は憚って敢えて援けず、張獻忠が光山・固始のあいだにいて少し弱いと聞き、諸將に謀って「上は私に豫賊を剿せと命じた。これも豫賊だ」と言い、左良玉に檄して麻城で破らせ、斬首千二百。開封が日ごとに急を告げても「私はいま獻忠に事がある」と言って赴かなかった。
- 傅宗龍が關に入って秦師を督すると聞くと、啓睿は「三邊にはすでに總督が置かれている」と言って敕書を改めるよう帝に乞い、敕書を改めて宗龍に自成を弁ぜしめた。九月、宗龍が項城で敗れて没したが、啓睿は救えなかった。賊は勝ちに乗じて南陽を陥し唐王を殺し、汝を開いて二郡は風を望んで下った。
- 十二月、自成が再び開封を囲む。河南巡撫の髙名衡から飛檄が至り、啓睿は兵を督して赴いたが、賊を避けて城に入り、部下は大いに淫掠した。總兵の陳永福が自成を射てその左目に中てた。翌年正月、賊は囲みを解いて去った。啓睿が許州にいたときは賊に逼られるのを畏れ、開封に赴きはじめて城を離れること三十里のところで城はすでに破れかけており、開封に抵って門を開いて入れると賊が乗じてほとんど陥ちるところであった。
- 四月、自成が群賊を合わせてまた開封を攻めた。六月、帝は侯恂を獄から釈して援剿の諸軍を督して開封を救わせたが、至らぬうちに開封の囲みはますます急になった。帝がしばしば詔して啓睿を切責したので、やむなく良玉・虎大威・楊徳政・方國安の軍と保定總督の楊文岳を大いに集め、七月に朱仙鎮で会し、賊の塁と相望んだ。賊の衆は百万。
- 啓睿が戦おうとすると良玉は「賊の鋒は鋭い、撃つべきではない」と言った。啓睿は「囲みはすでに急だ、必ず撃つ」と言い、諸將はみな懼れた。良玉は営に帰るとすぐ先に走り、諸営もみな走った。啓睿と文岳は騎を聯ねて汝寧へ奔り、賊は河を渡って追い、四百里追奔して、馬贏七千と将士数万を喪い、啓睿は敕書も印も剣もみな失った。事が聞こえて詔して職を褫い、代わりを候たせた。九月、賊が馬家口の河を決して開封に灌ぎ、開封はついに陥ちた。
- そこで徴されて吏に下されたが、久しくして釈されて帰った。嗣昌が死んで二年で啓睿が敗れ、啓睿が敗れてまた二年で明は亡んだ。
- 福王のとき啓睿は馬士英に夤緣して為事官に充てられ、河南の勸農・剿寇の諸務を督した。まもなく歸徳の偽官を禽斬したことで兵部尚書を拜し、太子太保を加えられ、その一子を官にした。事が敗れると身を脱して里に旋り、久しくして卒した。
丁魁楚――両廣總督と降(附伝)
- 從父の魁楚は崇禎四年(1631年)春、右僉都御史として保定を巡撫した。七年(1634年)兵部右侍郎に擢せられ、傅宗龍に代わって薊遼・保定の軍務を總督した。九年(1636年)七月、畿輔が兵を被り、魁楚は坐して吏に下されたが、久しくして放たれて還った。
- 福王のとき故官に起用されて河南・湖廣を總督し、承天・徳安・襄陽の巡撫を兼ねたが、赴かぬうちに両廣總督の沈猶龍が入って侍郎となったので、魁楚はついにその任に代わり、まもなく兵部尚書を加えられた。
- 唐王が福州で自立すると、故官のまま戎政を協理せよと命じた。靖江王亨嘉が桂林で反して梧州に下り、巡撫の瞿式耜を執えると、魁楚は思恩參將の陳邦傳らに檄して襲って走らせ、桂林で獲た。魁楚を平粤伯に封じ、なお両廣に留鎮させた。閩中の事が敗れると式耜とともに桂王を肇慶に擁立し、東閣大學士に進んで戎政を兼理した。
- 大清兵が廣州を下して漸く肇慶に迫ると、魁楚は王を奉じて梧州に走り、さらにこれを棄てて岑溪に走った。輜重が多く舳艫が相属いたので、大將の李成棟に追われて獲られ、魁楚はついに降った。成棟とは隙があり、その家の数百人を録して殺した。魁楚が一子だけをと乞うと、成棟は笑って「汝は身すら保てぬのに、なお人を活かそうと求めるのか」と言い、あわせて殺した。