明史卷二百六十 列傳第一百四十八 練國事

言官の時代

  • 字は君豫、永城の人。萬厯四十四年(1616年)進士、沛縣知縣を授かり山陽に調される。天啟二年(1622年)徴されて御史を授かる。
  • 廣寧が失守すると、薊州・宣府・大同および山東・山西・河南の撫臣に各々一万の兵を練って山海の声援を壮んにせよと請うた。また大同の妖人を捕えて誅せと請い、また疏して、魏忠賢が群閹に尚書の鍾羽正を辱めさせ冬衣を索めて国体を傷つけたことを論じた。國事は諫垣にあって匡救するところが多かった。給事中の趙興邦は忠賢の私人で、國事を趙南星の党であるとして劾し、籍を削られた。

陝西巡撫と剿賊

  • 崇禎元年(1628年)復官して太僕少卿に擢せられ、右僉都御史に進んで陝西を巡撫した。關中は年ごとに飢え、盗賊が蜂起していた。
  • 四年(1631年)正月、神一元が保安を陥すと、國事は賀虎臣を遣って延安を援けさせ、自ら副將の張全昌を率いて點燈子を中部・郃陽・韓城で連破し、また別部を宜君・雒川で破って、その魁の李應鰲を降した。諸將の張全昌・趙大允・王承恩・杜文煥・賀虎臣らが澄城・宜川・耀州・白水・郃陽で賊を分けて剿し、斬首千九百餘。
  • 總督の楊鶴が群賊の降を受けたのちも相継いで叛き、田近菴・李老柴が中部を陥すと、國事は承恩とともに攻囲して五月にこれを克った。しかし所部でもしばしば失事があり、楊鶴が徴されると國事も罪を戴して自ら贖うこととなった。
  • 五年(1632年)、紅軍友・李都司らが平凉を犯そうとすると、國事は涇から固原へ趨き、大帥の楊嘉謨に檄して賊の塘馬を殺しその偵探を断たせた。賊は慶陽の西壕へ走り、嘉謨・曹文詔が邀撃して大破した。三月から五月まで大小数十戦、賊はついに破滅し、國事は戴罪を免ぜられた。
  • 当時、關中五鎮の大帥、曹文詔・楊嘉謨・王承恩・楊麟・賀虎臣が各々辺軍を督して協力して討ち、總督の洪承疇はとりわけ調度に善かったので、賊魁は多く殲され、残りはことごとく山西へ走り、關中はやや靖まった。

車箱峽の撫と下獄

  • 六年(1633年)冬、賊は澠池から渡って盧氏に入り、翌年ついに河南・湖廣から漢南に入った。總督の陳奇瑜は國事に檄して商州に駐まらせ、商南・盧氏の賊を協剿させた。漢南の賊は寧羌から両當に至り、鳳縣を掠め棧道を出て寳雞を陥し、關中の賊はまた熾んになった。
  • ついで奇瑜が賊の降を受け、諸軍に撃つなと檄したので、賊は険を出て大いに鳳翔・麟遊・寳雞・扶風・汧陽・乾州・涇陽・醴泉を掠めた。奇瑜は罪を國事に委ねて自ら解こうとした。
  • 國事は上言した。漢南の賊がことごとく棧道に入ったとき、奇瑜の檄で兵を止められ、臣は撫した実数を知らなかった。奇瑜の疏を見ると、八大王の部は一万三千餘人、蠍子塊の部は一万五百餘人、張妙手の部は九千一百餘人、八大王のもう一部は八千三百餘人。臣は思わず仰天長歎した。そもそも一月のうちに強寇四万餘を撫し、ことごとく棧道から内地に入れて、食飲はどこから出るのか、どうして剽掠せずにいられよう。しかも一大帥が三千人を将いるのに、一賊魁がかえって一万餘の衆を擁していて、どうして紀律を受けよう。原籍に帰ると口実にしても、延安の州県ににわかに四万餘人が増えて、どこに安集させるのか。諸々の征剿の兵を合わせても二万に満たぬのに、降った賊は四万を踰える。内地の兵力で支えられるはずがなく、名城を連ねて陥して救えぬのも道理である。臣が堵剿しなかったのを咎めるなら、先に止兵の檄があった。賊がすでに撫を受けたのに使人を誤殺したためにこうなったと言うなら、誤殺の前になぜ麟遊・永夀を破ったのか。今こうなった以上は、急ぎ大軍を調えて討つほかない。もしなお原籍に帰りたいというのを容れて兵に剿を禁ずるなら、三秦の禍はどこで終わるのか、と。
  • 疏が入ったが事はすでにどうにもならず、ついに逮えられて下獄した。九年(1636年)正月、廣西に遣戍。久しくして前の功を叙して赦されて還り、冠帯を復した。福王のとき召されて戸部左侍郎となり、まもなく兵部に改まり、十二月に尚書を加えられてなお侍郎の事に涖んだ。翌年二月に致仕し、まもなく卒した。