明史卷二百六十 列傳第一百四十八 熊文燦
貴州永寧衞の人。萬厯三十五年の進士で、琉球への冊封使も務めた。崇禎元年に福建巡撫となり、鄭芝龍を招き降して手足とし、李魁奇・鍾斌・鍾靈秀・劉香ら海寇を次々に平げて名を挙げた。両廣總督のとき、賊情を探りに来た中使に酔って大言したことから帝の目に留まり、姻戚の姚明恭と楊嗣昌の推挙で崇禎十年に六省の軍務を總理する大任を負った。しかし海寇の成功体験のまま流賊にも招降を用い、張獻忠・劉國能・羅汝才らの降を次々に受け入れ、金帛や酒牢で賊を犒う「求賊」を行って帝に「大言して実がない」と評された。崇禎十二年五月に張獻忠が榖城で反し九営がことごとく叛くと、官を削られて戴罪となり、左良玉の敗績を機に楊嗣昌に代えられて獄に下され、翌年十月に棄市された。
年表(9件)
- 萬厯三十五年1607年進士に及第し、黄州推官を授かる
- 崇禎元年1628年三月に右僉都御史として福建を巡撫し、鄭芝龍を諭降して自らの用とする
- 崇禎五年1632年二月、兵部右侍郎兼右僉都御史として両廣の軍務を總督し廣東を巡撫する
- 崇禎八年1635年芝龍が劉香を由尾の遠洋に破り、香は自焚して海盗はことごとく平らぐ
- 崇禎十年1637年四月、兵部尚書兼右副都御史として南畿以下六省の軍務を總理する
- 崇禎十二年1639年三月、馬進忠・李萬慶らが相次いで降り、残る賊は三部のみと奏する
- 崇禎十二年1639年五月、張獻忠が榖城で反し、羅汝才らの九営がことごとく叛く
- 崇禎十二年1639年七月、左良玉の敗績を受けて楊嗣昌に代えられ、獄に逮えられて大辟に坐す
- 崇禎十三年1640年十月、ついに棄市される
福建巡撫と海寇の招撫
- 貴州永寧衞の人。萬厯三十五年(1607年)進士、黄州推官を授かる。禮部主事から郎中を歴任し、出て琉球を封じて還り、山東左參政・山西按察使・山東右布政使に擢せられた。憂で帰り、これより家を蘄水に徙した。
- 崇禎元年(1628年)福建左布政使に起用され、三月には右僉都御史を拜してその地を巡撫した。海上には元来劇盗が多く、袁進・李忠が降ったのちも楊六・楊七および鄭芝龍が継いで起こった。總兵官の俞咨臯が六・七を招いて降らせたが、芝龍は猖獗なままであった。しかし芝龍は都司の洪先春を敗ったとき釈して追わず、一人の遊擊を獲ても殺さず、咨臯が戦い敗れても走らせた。当事者はその撫すべきを知り、使いを遣って諭降させた。文燦は至って芝龍を善く遇し、己の用とした。
- その党の李魁奇は再び降って再び叛き去ったが、芝龍が撃って禽え、海の警は漸く息んだ。ところが鍾斌がまた起こった。斌も初めは就撫したが、のち叛いて福州を寇した。文燦は斌を泉州に誘い、芝龍に撃たせて敗り、ついで大洋に蹙めて、斌は投海して死んだ。閩中がしばしば巨寇を平げたのは、みな芝龍の力である。文燦も功を叙して秩を増された。
- 五年(1632年)二月、文燦を兵部右侍郎兼右僉都御史に擢し、両廣の軍務を總督し廣東を巡撫させた。先に海寇の鍾靈秀が降ってまた叛き、芝龍に禽えられたが、その党は潰えて長汀に入り、転じて江西の属邑を掠めた。文燦は芝龍に檄してしばしば賊を敗ったが、福建には紅夷の患いがあり、海盗の劉香がこれに乗じて閩・廣の沿海の邑を連ねて犯した。帝が文燦を責めたが、文燦は討てず、招撫を議した。賊は佯ってこれを許した。
- 參政の洪雲蒸は長沙の人。初め廣西參政に官し、かつて淩秀の余党を捜して三十餘級を斬り、その巣をことごとく毀った。文燦は雲蒸に、副使の康承祖、參將の夏之本・張一傑とともに賊の舟に入って宣諭させたが、みな捕らえられた。文燦は罪を懼れて、諸臣が賊を信じて自ら陥ったと奏した。給事中の朱國棟がこれを劾し、詔して秩を貶し罪を戴して自効させた。
- 八年(1635年)、芝龍が廣東の兵と合して香を由尾の遠洋に撃った。香は雲蒸を脅して兵を止めさせようとしたが、雲蒸は大呼して「私は死を矢して国に報いる。急ぎ撃て、失するな」と言い、ついに遇害した。香は勢い蹙まって自ら焚き溺れ死んだ。承祖らは脱れ還り、賊党千餘人は浙江に詣って款に帰し、海盗はことごとく平いだ。
總理への抜擢
- 文燦は閩・廣に官すること久しく、積んだ貲は無算であった。珍宝を厚くして中外の権要と結び、久しく嶺南に鎮しようと謀った。たまたま帝は劉香がまだ死んでいないのではないかと疑い、また文燦の人となりを知らなかったので、中使を遣って廣西の采辦にかこつけて覘わせた。至ると文燦は盛んに贈遺し、留めて十日飲ませた。中使は喜び、話が中原の寇乱に及ぶと、文燦は酒に中りながら案を撃って罵った。諸臣が国を誤ったのだ。もし文燦が往ったなら、鼠輩をここまでにさせただろうか、と。中使は起立して言った。私は廣西の采辦に往くのではない。上命を銜んで公を覘いに来たのだ。公はまことに当世の才がある。公でなければこの賊は弁ぜられぬ、と。文燦は不意を突かれて失言を悔い、五難四不可を並べたが、中使は「私は上に見えて自ら請おう。もし上が惜しまれぬなら、公は辞せまい」と言い、文燦は辞に窮して「諾」と応じた。中使は還朝して果たしてこれを言い、帝は文燦に注目した。
- 初め文燦が蘄水に徙ってから、邑人の姚明恭と姻戚となった。明恭は詹事に官し、また楊嗣昌と善かった。嗣昌は兵柄を握って帝の眷を承け、帝が賊の平定を急ぐので、一人を得て自ら助けたいと思っていた。明恭はそこで文燦を薦め、「これには内援があって引ける」と言った。嗣昌は喜んでこれを薦めた。
- 十年(1637年)四月、文燦を兵部尚書兼右副都御史に拜し、王家禎に代えて南畿・河南・山西・陝西・湖廣・四川の軍務を總理させた。文燦は拜命するとすぐ、左良玉の将いる六千人を己の軍とすることを請い、大いに粤人および烏蠻の火器に精しい者一二千人を募って自ら護らせた。弓刀甲冑は甚だ整っていた。
- 廬山に次して親しくしていた僧の空隠に謁すると、僧は迎えて「公は誤った」と言う。文燦が人を屏けて故を問うと、僧は言った。公は自ら将いる兵が賊の死命を制するに足ると思うか。「できぬ」。諸將に大事を託して一面を当たらせ、指揮を煩わさずに定める者があるか。「どうであろうか」。二者ともできないのに、上は特に名をもって公を使い、厚く責望している。一たび効がなければ誅されよう、と。文燦は却立してしばらくして「撫すればどうか」と言った。僧は「私は公が必ず撫すると料っていた。しかし流寇は海寇の比ではない。公よ、慎まれよ」と言った。
- 文燦は去って安慶に抵る。帝が遣った中官の劉元斌・盧九徳が勇衛營の軍を監して至った。良玉は宿將で桀驁、文燦の節制を受けない。たまたまその下の者と粤軍が不和になり、大いに文燦を詬ったので、やむなく南兵を還し遣ったが、良玉の軍は実際には用をなさなかった。嗣昌が帝に言い、辺將の馮舉・苗有才の兵五千人を隷させた。有才は真陽で敗れたが、京營の將の黄得功が連破し、兵威は甚だ振るった。
招降策の破綻と棄市
- 当時、嗣昌は四正六隅の策を建て、兵餉を増して大半に滅賊を期していたので、賊はかなり懼れた。文燦が至って京軍がしばしば捷つといよいよ懼れた。ところが文燦はかえって招降を決意した。安慶に抵るとすぐ人を遣って張獻忠・劉國能を招き、二人は命を聴いた。そこでますます招降の檄を刊して通都に布き、また民と粟をことごとく遷して城中に閉じれば賊は掠める所なく自ずと退くと請うた。帝は怒って譙め讓め、嗣昌も心では非としたが、すでに任じた以上は曲げて文燦のために解き、その請いによって畿輔・山西の兵各三千を与えた。
- 翌年、國能は果たして降ったが、獻忠は榖城を襲って拠った。たまたま得功がまた賊を舞陽で大破し、馬士秀・杜應金が夜半に信陽城下で降った。獻忠は左良玉に創つけられてほとんど禽えられ、その下は飢え困じて多く散じ去った。獻忠は窮蹙して陳洪範を介して降った。そこで嗣昌は功罪を議して洪承疇・曹變蛟らを絀け、文燦の功を称した。
- ついで京軍が遂平の囲みを解いて斬獲三千餘。時に文燦は裕州にあり、馬進忠・羅汝才ら十三家の賊が南陽に聚まった。文燦は「賊を殺した者は死をもって償わせる」と令し、賊が従おうとしなければ金帛や酒牢を齎して犒った。名づけて求賊という。帝は状を詗知して「文燦は大言して実がない」と言った。文燦は孫傳庭が關を出て賊を撃ち、文燦が救わないことになるのを恐れたが、嗣昌はすでに政府に入って中樞を掌っていた。
- 九月、文燦は襄陽に次した。賊は鄖・襄の諸険に分かれ拠り、諸將は戦を請うたが、文燦は分兵を議した。盧九徳が「兵を分ければ力が弱まり、一たび失利すれば全軍が揺らぐ。厚くその力を集めて合撃するに如くはない」と言い、衆は善しとした。そこで僉事の張大經に大將の左良玉・陳洪範の軍を監させ、通判の孔貞會に副將の龍在田の軍を監させ、雙溝で戦って大破し、斬首二千餘級。羅汝才・惠登相は九営を率いて均州に走り、李萬慶は三営を率いて光・固に走った。
- 十一月、京師が戒厳となり、洪承疇・孫傳庭を召して入衛させた。汝才らは己を討つためかと思って懼れ、太和山の提督中官を叩いて文燦に撫を求め、許された。汝才および一丈青・小秦王・一條龍の四営を鄖縣に、登相および王國寧・常徳安・楊友賢・王光恩の五営を均州に処した。上言して「臣は李萬慶・賀一龍・馬光玉および順天王には剿を主とし、他はみな撫を主とします。汝才らの罪を赦し官を授けることをお許しください」と言い、可とされた。
- 時に京軍も良玉の軍もみな入衛に行っていた。馬士秀・杜應金がついに許州で叛いた。初め士秀らが降ったとき、良玉はその衆を許の郊外に処した。許は大州で、良玉の諸將は妻子と財貨をここに預けていた。良玉が久しく征して帰らず、士秀・應金は文燦の軍中にあって偽って急を請い、良玉の軍号を借りて城に入り、夜半に兵を府第から出して城南の楼を焼き、庫を刦して官吏を殺し、その貲を挈げて萬慶に投じた。萬慶とは賊魁の射塌天である。
- 十二年(1639年)三月、良玉が還って馬進忠を破って降し、劉國能に萬慶を撃たせて降し、士秀・應金もまた降った。順天王はすでに前に死に、その党の順義王はその下の者に殺された。文燦はそこで上言した。臣の兵威は震慴し、降る者は接踵している。十三家の賊のうち残るは革・左および馬光裕の三部だけで、歳月のうちに平げられよう、と。帝は優詔で報じた。
- 初め張獻忠が降ったとき、兵一万を擁して榖城に拠り、十万人分の餉を索めた。文燦および中外の要人は「与えよ」と言った。官を請い地を請い關防を請うた。獻忠は軍の状を列して「備えを請う」と言った。ついで三たびその兵に檄したが応じない。朝野は獻忠が必ず叛くと知った。その後、汝才が降っても甲を釈こうとせず、進忠・萬慶らが並んで降ると、文燦は策を得たとして、天下にもう賊はいないと言った。
- 五月、獻忠はついに榖城で反し、汝才を房縣で刦した。こうして九営はみな反した。初め均州の五営は討たれるのを懼れて自ら疑い、相ともに歃血して獻忠を拒んだが、まもなくやはり叛き去った。
- 帝は変を聞いて大いに驚き、文燦の官を削って罪を戴して視事させた。七月、良玉が獻忠を羅□(底本欠字)山に撃って敗績した。帝は大いに怒り、嗣昌に来て代われと命じた。嗣昌は軍に至るとすぐ使いを遣って文燦を下して獄に逮え、大辟に坐した。親しくしていた姚明恭が国柄を握っていたが救えなかった。十三年(1640年)十月、文燦はついに棄市された。