明史卷二百五十九 列傳第一百四十七 熊廷弼

江夏の人、字は飛百。萬厯二十五年に郷試第一、翌年に進士。遼東巡按として屯田と築堡を建議し、「辺を防ぐには守るを上とす」の持論を立てた。サルフの敗後に楊鎬に代わって経略となり、逃将を斬り守具を修めて数か月で遼陽の守りを固めたが、姚宗文・劉國縉らの怨みを買って弾劾され罷免された。天啟元年、遼陽陥落を機に再び起用され、広寧・天津登莱・山海の三方布置策を立てたが、戦を主張する巡撫王化貞、これを支持する兵部尚書張鶴鳴と衝突し、経撫不和のまま広寧を失った。五千の兵で潰民を護って関に入ったことが罪とされ、化貞とともに死罪に論じられ、魏忠賢の憎しみによって天啟五年に棄市・伝首九辺、さらに贓を追われて姻族まで破産し、長子の兆珪は自刎した。崇禎年間に徐爾一・韓爌らが冤を訴え、ようやく帰葬が許された。

年表(12件)
  • 萬厯二十五年1597年郷試に第一で合格し、翌年に進士となって保定推官に授けられる
  • 萬厯三十六年1608年遼東を巡按し、屯田と築垣建堡を建議して諸辺に推行される
  • 萬厯四十七年1619年楊鎬に代わって遼東経略となり、尚方剣を賜って守禦の計を立てる
  • 天啟元年1621年遼陽陥落を受けて家から起こされ再び経略に任じられる
  • 萬厯四十一年1613年のちに広寧巡撫となる王化貞が進士に及第する
  • 天啟元年1621年六月に入朝して三方布置策を立て、兵部尚書として山海関に駐す
  • 天啟元年1621年八月朔、朝鮮との連絡策を上げるが、毛文龍の鎮江襲取を「奇禍」と論じて化貞と対立する
  • 天啟二年1622年正月に徐大化の弾劾を受け、二十二日の平陽橋の潰敗で広寧が陥ち、二月に罷めて取り調べとなる
  • 天啟二年1622年四月、王紀・鄒元標らの奏により化貞とともに死罪に論じられる
  • 天啟五年1625年八月、魏忠賢一党の讒言により棄市され、首を九辺に伝えられる
  • 崇禎元年1628年詔があって追贓を免じられ、秋に徐爾一がその冤を訴える
  • 崇禎五年1632年王化貞がようやく処刑される

出自と初度の按遼

  • 熊廷弼は字を飛百といい、江夏の人。萬厯二十五年(1597年)に郷試で第一となり、翌年に進士となった。保定推官に授けられ、御史に抜擢された。
  • 三十六年(1608年)、遼東を巡按した。巡撫の趙楫と総兵官の李成梁が寛甸の新疆八百里を棄て、編民六万家を内地に移しながら、功を論じて賞を受けていた。給事中の宋一韓がこれを論じたので、廷弼に下して覆勘させた。廷弼は地を棄て民を駆った状を明らかにし、二人の罪、および先任の按臣の何爾健・康丕揚が党を組んで庇った罪を弾劾したが、疏はついに下されなかった。
  • ときに屯田を興す詔があった。廷弼は「遼には空き地が多い。年に定員の軍八万のうち三分をもって屯種させれば粟百三十万石を得られる」と言った。帝は優詔で褒め、諸辺に推行するよう命じた。
  • 辺将は好んで敵の巣を衝いて釁端を生じさせた。廷弼は「辺を防ぐには守るのを上とする」と言い、垣を繕い堡を建てる十五の利を挙げ、上奏して行われた。
  • 年に大旱があり、廷弼が金州を巡行したとき城隍神に祈って「七日で雨が降らねばその廟を毀つ」と約した。広寧に至って三日を越えたところで、大書した白牌を作り剣を封じて使いを遣って斬りに行かせた。使いが着かぬうちに風雷が大いに起こり雨が注ぐように降ったので、遼の人は神と思った。
  • 遼にあること数年、贈り物を絶ち、軍の実数を調べ、将吏を弾劾して姑息にせず、風紀は大いに振るった。
  • 南畿の学政を督したときは厳明で名声があったが、諸生を杖死させた事件で巡按御史の荆養喬と互いに訐り合い、養喬は弾劾状を投じて去り、廷弼もまた取り調べを待って帰った。

第一次経略

  • 四十七年(1619年)、楊鎬が師を喪ったのち、廷議は廷弼が辺事に習熟しているとして、大理寺丞兼河南道御史に起用して遼東を宣慰させ、ほどなく兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢して鎬に代えて経略とした。
  • まだ京を出ぬうちに開原が失われた。廷弼は上言した――遼左は京師の肩背、河東は遼鎮の腹心、開原はまた河東の根本である。遼東を保とうとすれば開原は必ず棄ててはならぬ。敵がまだ開原を破らぬうちは、北関と朝鮮がなお腹背の患いになり得た。いま開原を破った以上、北関は服さざるを得ず、一介の使を遣れば朝鮮も従わざるを得ない。腹背の憂いがなくなれば必ず東西の勢を合わせて交々攻めてくる。とすれば遼陽・瀋陽をどうして守れよう。急ぎ将士を遣り、秣糧を備え、器械を修められたい。臣の用を窘めず、臣の期を緩めず、途中で阻んで臣の気を沮まず、傍らから撓めて臣の肘を掣かず、艱危だけを臣に遺されぬよう。それでは臣を誤り遼を誤り、あわせて国を誤ることになります、と。疏が入ると、ことごとく允可の報があり、しかも尚方剣を賜ってその権を重くした。
  • 関を出たばかりで鉄嶺が再び失われ、瀋陽および諸城堡の軍民は一時にみな逃げ散り、遼陽は騒然となった。廷弼は道を兼ねて進み、逃げる者に会えば諭して帰らせ、逃将の劉遇節・王捷・王文鼎を斬って死節の士を祭り、貪将の陳倫を誅し、総兵官の李如楨を弾劾して罷めさせ、李懐信を代わりとした。
  • 軍士を督して戦車を造らせ、火器を治め、濠を浚え城を繕い、守禦の計とした。令は厳しく法は行われ、数か月で守備は大いに固まった。
  • そこで方略を上げ、兵十八万を集めて靉陽・清河・撫順・柴河・三岔児・鎮江の諸要口に分布し、首尾相応じさせ、小さな警なら自ら防ぎ、大敵なら互いに応援し、さらに精悍な者を選んで遊撃隊とし、隙に乗じて零騎を掠め、耕作と牧畜を擾し、番を替えて繰り返し出して敵を奔命に疲れさせ、そののち機を見て進んで討つよう請うた。疏が入ると帝はこれに従った。
  • 廷弼が初めて遼に着いたとき、僉事の韓原善に瀋陽を撫させようとしたが、憚って行かなかった。続いて僉事の閻鳴泰に命じたが、虎皮駅まで来て慟哭して帰った。
  • そこで廷弼は自ら巡歴し、虎皮駅から瀋陽に至り、さらに雪の夜に乗じて撫順に赴いた。総兵の賀世賢が敵に近いとして阻んだが、廷弼は「氷雪が地に満ちている。敵は我が来るとは思うまい」と言い、鼓吹して入った。当時は兵火の後で数百里に人跡がなく、廷弼は死事の者を祭って哭した。そして奉集で兵を耀かし、形勢を測って還った。行く先々で流民を招き、守具を繕い、士馬を分置したので、人心はふたたび固まった。
  • 廷弼は身の丈七尺、胆があり兵を知り、左右どちらでも射るのが巧みであった。遼を按じたときから守辺の議を持し、このとき守禦を主張することいよいよ堅かった。しかし性は剛で気を負い、罵ることを好んで人の下に立たなかったので、そのため人望はあまり附かなかった。

姚宗文らの攻撃と罷免

  • 翌年五月、我が大清の兵が花嶺の地を掠め、六月に王大人屯を掠め、八月に蒲河を掠めて将士七百余人を失った。諸将の世賢らにも斬獲の功があった。ところが給事中の姚宗文が朝廷で謗を広めたので、廷弼はその位に安んじられなくなった。
  • 宗文はもと戸科給事中で、喪に丁って帰り、朝に還って官に補されようとしたが、吏部の題請の諸疏はおおむね数年下らなかった。宗文はこれを憂え、西部を招徠する名を借りて当事者に自分を薦めさせようとし、疏を何度も上げたが命を得られなかった。窮した宗文は廷弼に書を致して代わりに請うてくれと言ったが、廷弼は従わなかった。宗文はこれによって怨んだ。
  • のち縁故を頼って吏科に復し、遼東の士馬を閲視したが、廷弼と議して合わぬことが多かった。
  • 遼東の人、劉國縉はさきに御史であったが、大計に坐して謫官となり、遼の事が起こったとき廷議で遼人を用いることになったので、兵部主事として賛画軍務となった。國縉は遼人を募って兵とすることを主張したが、募った一万七千余人は逃亡が半ばを過ぎ、廷弼が朝廷に報告したので、國縉もまた怨んだ。
  • 廷弼は御史であったとき、國縉・宗文と同じく言路にあり、意気投合して、ともに東林を排し道学を攻めることを事としていた。國縉らはそのため廷弼に期待していたが、廷弼が以前のようにできなかったので、ますます相い失った。宗文はもと國縉の門下から出ていたので、二人はいよいよ結んで廷弼を傾けようとした。
  • 宗文は帰ると疏を上げて、遼の土地が日ごとに縮まっていると陳べ、廷弼が群策を廃して独り智を誇るとそしり、「軍馬は訓練されず、将領は部署されず、人心は親附せず、刑威には窮まるときがあり、工作にはやむときがない」と言った。さらに同類を煽って攻撃させ、必ず除こうとした。
  • 御史の顧慥がまず廷弼を弾劾し、「関を出て一年を越えても定まった計画がまるでなく、蒲河の失守は隠して報告せず、戈を担う士をただ土掘りに使い、尚方の剣で意のままに威を振るっている」と言った。
  • このとき光宗が崩じ熹宗が即位したばかりで、朝廷はまさに事が多く、封疆の議が起こった。御史の馮三元が「廷弼の無謀なること八、君を欺くこと三」と弾劾し、「罷めねば遼は必ず保てぬ」と言った。詔があって廷議に下された。
  • 廷弼は憤って抗疏して極力弁じ、かつ罷免を求めた。ところが御史の張修德がまた「遼陽を破壊した」と弾劾した。廷弼はいよいよ憤り、再び疏を上げて自ら明らかにし、「遼はすでに危うきを転じて安きとした。臣はまさに生を捨てて死を致そう」と言い、尚方剣を返上して力をこめて罷斥を求めた。
  • 給事中の魏應嘉がまた弾劾し、朝議は廷弼を去らせることを認め、袁應泰を代わりとした。
  • 廷弼はそこで上疏して取り調べを求め、こう言った――遼の師が覆没したとき、臣は初め疲れた卒数千を駆って、よろめきながら関を出た。杏山に至ったところで鉄嶺がまた失われ、廷臣はみな遼は必ず亡ぶと言った。それが今は地方が安堵し、朝廷こぞって席を安んじている。これは操練せず部署しない者に成し得ることではない。もし「兵十万を擁しながら将を斬り王を擒にできぬ」と言うのなら、まことに臣の罪であるが、今日それを求めるのはとても容易なことではない。令箭で催して張帥は命を落とし、馬上で催して三路は軍を喪った。臣がどうしてまた前の轍を踏めましょうか、と。
  • 三元・應嘉・修德らがまた連ねて章を上げて極論したので、廷弼はこの三人を取り調べに遣わすよう請うた。帝はこれに従ったが、御史の吳應奇、給事中の楊漣らが力をこめて不可と言ったので、兵科給事中の朱童蒙を遣わすことに改められた。
  • 廷弼はまた上疏した――臣は恩を蒙って帰籍し取り調べを待つ身、それでよろしい。ただ台省が臣を「遼を破壊した」と責めて他人に遺す以上、一々上に陳べぬわけにはいかぬ。いま朝堂の議論はまるで兵を知らない。冬春のあいだ、敵が氷雪でやや緩めば、騒然と「師は老い財は乏しい」と言って馬上で戦を促す。軍が敗れると初めて愀然として再び言えなくなる。臣が収拾してようやく定まると、愀然としていた者がまた騒然として戦を責める。遼の難が起こって以来、武将を用い文吏を用いるのに、どれ一つ台省の建白でないものがあろうか。それでいつ一つでも効があったか。疆場の事は疆場の吏に自ら任せるべきである。どうして帖括(科挙の答案)の言葉を拾って人の意を乱す必要があろう。一つ従わぬとたちまち怫然と怒る、と。
  • 朱童蒙が還って奏し、詳しく廷弼の功状を陳べた。末尾に言った――臣が遼に入ったとき、士民は泣きながら道々「数十万の生霊はみな廷弼一人が留めたものだ」と申しました。その罪をどうして軽々に議せましょう。ただ廷弼は最も深く知遇を受けながら、蒲河の役で敵が瀋陽を攻めたとき馬を策って救いに趨いたのは何と壮んなことでしたが、官兵の駑弱を見るや、たちまち骸骨を乞うて帰ろうとしたのは、君恩をどこに置くつもりでしょう。廷弼の功は遼を存したことにあり、わずかな労は記すべきものがあります。しかし罪は君に負いた大義にあり、実に逃れようがありません。これは罪が功に勝る場合です、と。
  • 帝は廷弼が力をこめて危うい城を保ったとして、なお起用を議した。

再起用と三方布置策

  • 天啟元年(1621年)、瀋陽が破れ應泰が死ぬと、廷臣はまた廷弼を思った。給事中の郭鞏が力をこめてそしり、あわせて閣臣の劉一燝にも及んだ。
  • 遼陽が破れると河西の軍民はみな逃げ、塔山から閭陽まで二百余里、煙火が絶えた。京師は大いに震えた。一燝は「廷弼が遼にいたら、ここまでは至らなかったろう」と言った。御史の江秉謙も追って「廷弼は危うい遼を保ち守った功がある」と言い、あわせて労臣を排擠したことを鞏の罪とした。
  • 帝はそこで先に廷弼を弾劾した者を治め、三元・修德・應嘉・鞏の三秩を貶し、宗文の名を除いた。御史の劉廷宣がこれを救おうとして、これも斥けられた。
  • そこで詔をもって廷弼を家から起こし、王化貞を巡撫に抜擢した。

王化貞(附伝)――出自と広寧巡撫

  • 王化貞は諸城の人。萬厯四十一年(1613年)の進士。戸部主事から右参議を歴任し、広寧を分守した。蒙古綽哈の諸部長が機に乗じて塞下をうかがったが、化貞が撫したのでみな動かなかった。
  • 朱童蒙が事を勘べて還ったとき、極力「化貞は西人の心を得ている。軽々に調して撫の事を毀たれぬよう」と言った。化貞もまた「遼の事はまさに壊れようとしている。ただ帑金百万を発して急ぎ西人と款を結べば、敵は顧忌して深く入り得まい」と言った。
  • ちょうど遼陽・瀋陽が相次いで亡んだ。廷議は廷弼を起用しようとし、御史の方震孺は化貞の秩を加えて便宜に事を行わせ、薛國用とともに河西を守らせるよう請うた。そこで化貞を右僉都御史に進めて広寧を巡撫させた。
  • 広寧の城は山の隈にあり、山に登れば城内を見下ろせた。三岔河を阻めとして恃んだが、三岔の黄泥窪はまた水が浅く渉れた。広寧にはひ弱な卒が千人いるだけであった。化貞は散り失せた者を招き集めて一万余人を得、士民を励まし、西部(蒙古諸部)と連絡したので、人心はやや定まった。
  • 遼陽が失われたばかりのころ、遠近は震え驚き、河西は必ず保てぬと言った。化貞が弱卒を提げて孤城を守り、気に怯むところがなかったので、時の望みは赫然たるものとなり、朝廷もまたその才は倚るに足るとして、河西の事をことごとく委ねた。
  • 化貞はまた「登州・莱州・天津の兵は置かずともよく、諸鎮の入衛兵も止めてよい」と言ったので、当事者はいよいよその才を信じ、奏請するところは常に可とされた。
  • 当時、金州・復州の諸衛の軍民および東山の礦徒の多くが砦を結んで自ら固め、官軍を待っていた。朝鮮に逃げ入った者もまた二万を下らなかった。化貞は諸人を鼓舞して爵禄を優遇し、自ら功名に奮い立たせるよう請い、朝鮮を詔諭して忠義を褒め、同仇を勉めさせるよう請うた。帝もこれに従った。

三方布置策と経撫の対立

  • 六月に至り、廷弼が入朝し、まず言官の貶謫を免ずるよう請うたが、帝は許さなかった。
  • そこで三方布置の策を立てた。広寧は馬歩の兵を用いて河上に塁を並べ、形勢をもって敵を格し、敵の全力を釘付けにする。天津・登莱にはそれぞれ舟師を置き、虚に乗じて南衛に入り、その人心を動揺させる。敵は必ず内を顧み、遼陽は復せられる、と。
  • そこで登莱にも天津と同じく巡撫を設けることを議し、陶朗先を充て、山海には特に経略を設けて三方を節制し、事権を一つにした。
  • そして廷弼を兵部尚書兼右副都御史に進め、山海関に駐して遼東の軍務を経略させた。
  • 廷弼はそこで尚方剣を請い、兵二十余万の調発を請い、兵馬・秣・器械の類を戸部・兵部・工部の三部に責成するよう請うた。監軍道臣の高出・胡嘉棟、督餉郎中の傅國の無罪を明らかにして復官・任事を請うた。遼人を用いることを議し、もとの賛画主事の劉國縉を登莱招練副使に、夔州同知の佟卜年を登莱監軍僉事に、もとの臨洮推官の洪敷教を職方主事・軍前賛画とし、遼人の心を収めることに用いようとした。いずれも允可された。
  • 七月、廷弼が出発しようとしたとき、帝は特に麒麟服一領・彩幣四つを賜り、郊外で宴し、文武の大臣に陪席を命じて餞した。異例の扱いであった。さらに京営の選鋒五千で廷弼の行を護らせた。
  • これより先、袁應泰が死んで薛國用が代わって経略となったが、病んで事に堪えなかったので、化貞が諸将を部署し、河に沿って六営を設け、営ごとに参将一人・守備二人を置き、地を画して西平・鎮武・柳河・盤山の諸要害を分守させ、それぞれに戍を置いて防を設けた。
  • その議が上がると、廷弼は然りとせず、上疏した――河は狭くて恃みがたく、堡は小さくて容れがたい。今日はただ広寧を固守するのがよい。もし兵を河上に駐めれば、兵が分かれて力が弱まり、敵が軽騎でひそかに渡ってまっすぐ一営を攻めれば、必ず支えきれぬ。一営が潰えれば諸営もみな潰え、西平の諸戍もまた守れぬ。河上にはただ遊撃の兵を置き、番を替えて出入りさせて敵に測らせぬのがよく、一処に屯集して敵に乗ぜられるべきでない。河から広寧までは烽堠を多く置き、西平の諸処にはわずかに戍兵を置いて烽を伝え哨探する用に充て、大兵はことごとく広寧に集め、城外の形勢を測って掎角に営を立て、深い塁と高い柵を設けて待つべきである。そもそも遼陽は広寧から三百六十里、敵の騎が一日で着ける距離ではない。物音があれば必ず予め知れる。決して兵を分けて河を防ぐという自ら弱める計を先にすべきでない、と。
  • 疏が上がると優旨で褒めて答えられ、ちょうど御史の方震孺も「河を防ぐには六つの恃みがたい点がある」と言ったので、化貞の議は沙汰やみとなった。
  • 化貞は計が行われなかったのを甚だ慍り、軍事をことごとく廷弼に委ねてしまった。廷弼はそこで、化貞が節制を口実にして事機を失うことのないよう申し諭すことを請うた。
  • これより先、四方から遼に援じた師を、化貞はことごとく「平遼」と改称したが、遼人の多くは喜ばなかった。廷弼は「遼人は叛いてはいない。『平東』あるいは『征東』と改めてその心を慰めたい」と言った。ここから化貞と廷弼のあいだに隙ができ、経撫不和の議が起こった。

朝鮮連絡策と毛文龍の鎮江襲取

  • 八月朔、廷弼は言った――三方の建置は朝鮮と連絡せねばならぬ。急ぎ勅使を発して彼の国の君臣を労い、八道の師をことごとく発して江上に営を連ね、我が声勢を助けさせたい。また詔書を発して彼の国に避難している遼人を憐れみ恤み、招集して団練し、別に一軍として朝鮮軍と勢を合わせ、我が使臣は義州に権駐して統制連絡し、登莱と消息を通じさせれば事に済うところがある。さらに銀六万両を発して朝鮮および遼人に分けて犒い、臣に空名の劄付百通を与えて承制拝除させたい。東山の礦徒で千人を集め得る者はただちに都司に署し、五百人の者は守備に署せば、一声で立ちどころに応じ、一、二万の勁兵はたちどころに致せる、と。
  • そして監軍副使の梁之垣が海浜に生い立ち朝鮮の事に習熟しているとして使者に薦めた。帝はただちにこれに従い、行人が使を奉ずる故事のとおり一品服を賜ってその行を寵した。之垣はそこで事権を重くし職掌を定める八事を列挙して上げ、帝もこれを可とした。
  • 之垣がまだ担当官と兵餉を議しているうちに、化貞の遣った都司の毛文龍がすでに鎮江を襲取して勝報を奏し、朝廷こぞって大いに喜んだ。急ぎ登莱・天津に水師二万を発して文龍に応じさせ、化貞は広寧の兵四万を督して進んで河上に拠り、蒙古軍と合して機に乗じて進取し、廷弼は中央にあって節制することとされた。
  • 命が下ったのち、経略と各鎮は互いに様子をうかがい、兵は結局進まなかった。
  • ほどなく化貞は東西の情勢を詳しく陳べた――敵は遼陽を棄てて守らず、河東の失陥した将士は日夜、官軍の到来を待って敵将を捕らえて降ろうとしている。西部の呼爾敦圖・綽哈はみな助兵を願っている。敵兵で海州を守るのは二千に過ぎず、河上にはただ遼卒三千がいるだけ。ひそかに師を出して夜襲すれば必ず克てる。敵の南を防ぐ者がこれを聞いて北に帰るところを、我が険に拠って懈んだところを撃てば尽くせる、と。
  • 兵部尚書の張鶴鳴はこれを然りとし、「時を失ってはならぬ」と奏した。御史の徐卿伯もまた促し、廷弼に広寧へ進駐させ、薊遼総督の王象乾を山海に移鎮させるよう請うた。
  • ちょうど化貞が馳せ奏して「敵は官軍が鎮江を収復したのに乗じて四衛の屯民を駆り掠めた。屯民は鉄山に拠って死守し、敵三、四千を傷つけた。敵はいよいよ急に囲んでいる。急ぎ救援に赴くべきだ」と言った。そこで兵部はますます進軍を促した。
  • 化貞はその月のうちに河を渡り、廷弼もやむを得ず関を出て右屯に次した。しかし馳せ奏して「海州は取るに易く守るに難い。軽々に挙げるべきでない」と言った。化貞は結局、功なく還った。

熊廷弼と王化貞――対立の激化

  • 化貞は人となりが愚かで強情、もとより兵に習わず大敵を軽んじ、大言を好み、文武の将吏の進諫はことごとく容れず、廷弼とはとりわけ牴牾した。
  • 妄りに降人の李永芳を内応と当てにし、西部の言を信じて「呼爾敦圖が兵四十万を助ける」と思い、戦わずして全勝を取ろうとした。一切の士馬・甲仗・糧食・営塁はみな捨てて問わず、もっぱら大言をなして中朝を欺いた。尚書の鶴鳴が深くこれを信じ、請うところは許されぬものがなかったので、廷弼はその志を行えなかった。
  • 広寧には兵十四万がありながら、廷弼は関上に一卒もなく、ただ経略の虚名を擁するだけであった。延綏の入衛兵が用に堪えず、廷弼がその帥の杜文煥を罪するよう請うと、鶴鳴は寛くするよう議した。廷弼が佟卜年を用いるよう請うと、鶴鳴は駁議を上げた。廷弼が之垣を遣ることを奏すると、鶴鳴はわざとその餉を滞らせた。二人はそこで互いに怨み、事ごとに齟齬した。
  • 廷弼もまた偏狭で剛愎、触れれば必ず発し、盛んな気で相手に当たったので、朝士の多くは厭い憎んだ。
  • 毛文龍の鎮江の勝利について、化貞は自ら端緒を発した奇功だと言ったが、廷弼は言った――三方の兵力がまだ集まらぬのに文龍が早く発しすぎたため、敵の恨みを招いて遼人が四衛の軍民をほぼ屠り尽くされた。東山の心を灰にし、朝鮮の胆を寒からしめ、河西の気を奪い、三方並進の謀を乱し、属国連絡の算を誤った。奇功と目するが、実は奇禍である、と。京師に書を送って力をこめて化貞をそしった。朝士はちょうど鎮江を奇捷としていたので、その言を聞いて服さぬ者も多かった。
  • 廷弼はまた公然と鶴鳴をそしって言った――臣は経略を任ぜられた以上、四方の援軍は臣の調遣を聴くべきである。ところが鶴鳴はまっすぐ自分で戍を発し、臣に知らせない。七月中に臣が部に咨って調軍の数を問うたが、今に至る二か月、答がない。臣には経略の名があってその実がない。遼左の事はただ枢臣と撫臣が共にやっているだけだ、と。鶴鳴はいよいよ恨んだ。
  • 九月に至り、化貞はなお「呼爾敦圖の兵四十万がまさに至る。急ぎ師を渡らせたい」と言った。廷弼は言った――撫臣は西部を恃んで戦わぬことを戦の計としている。しかし西部は我と進むところが同じでない。彼は北道に入り我は南道に入り、相距たること二百余里。敵が兵を分けて応じてくれば、やはり我自ら支えねばならぬ。臣は敵人を軽視して「戦わずして勝てる」とは申しかねる。臣が初めに議した三分の布置は、必ず兵馬・器械・舟車・秣を一つ残らず備えたうえで期を刻して斉しく挙げ、進んでは戦うに足り退いてもまた守るに足るというものであった。いま事に臨んで中途で乱れている。枢臣が中で謀を主とし撫臣が外で策を決して一挙の成功を占っておられるが、臣にはなお万一そうならぬ場合の憂いがある、と。
  • やがて西部はついに来ず、化貞の兵も進めなかった。
  • 廷弼が化貞と隙を生じてから、中朝で化貞に味方する者の多くは廷弼をそしった。給事中の楊道寅は高出・胡嘉棟を用いるべきでないと言い、御史の徐景濂は極力化貞を誉めて廷弼を刺し、之垣が故郷で逍遥して使命にふさわしくないとそしった。御史の蘇琰は「廷弼は広寧に駐すべきで、遠く山海に駐すべきでない」と言い、あわせて登莱の水師は無用だと言った。廷弼は怒って抗疏し、力をこめて三人をそしった。帝はいずれも問わなかった。
  • ところが帝が講筵で不意に「卜年は叛族の縁につながる者なのに、なぜ僉事に抜擢したのか。國縉はしばしば論列された者なのに、なぜ起用したのか。嘉棟は功を立てて罪を贖うべきなのに、なぜ天津にいるのか」と問うた。廷弼は左右が讒言したと知り、抗疏して弁じたが、言葉はかなり憤激していた。
  • このとき廷弼は守を主として、遼人は用いるべからず、西部は恃むべからず、永芳は信ずべからず、広寧には間諜が多くて憂うべしと言った。化貞は一切これに反し、絶えて守を言わず、「我が一たび河を渡れば河東の人は必ず内応する」と言い、しかも中朝に書を飛ばして「仲秋の月には枕を高くして勝報を聴ける」と言った。識者はその必ず事を仕損じることを知ったが、疆場の事は重いので、その短所を敢えて言う者はなかった。

広寧の陥落

  • 十月に至って氷が張ると、広寧の人は「大清の兵が必ず河を渡る」と言い、騒然と逃げ散ろうとした。化貞はそこで方震孺と計り、兵を分けて鎮武・西平・閭陽・鎮寧の諸城堡を守り、大軍で広寧を守ることにした。
  • 鶴鳴もまた広寧が心配だとして、廷弼に関を出るよう勅を下すことを請うた。廷弼は上言した――枢臣はただ「経略が一たび出れば人心を鎮めるに足る」とだけ知って、徒手の経略が一たび出れば人心の動揺はかえって甚だしくなることを知らぬ。しかも臣が広寧に駐すれば化貞はどこに駐すのか。鶴鳴は経と撫に心を協せて力を同じくせよと責めるが、枢臣と経臣だけは心を協せ力を同じくせずともよいのか。今日の計は、ただ枢部が臣に同じてくださってこそ、臣は陛下のために東方の事に当たれるのだ、と。その言はきわめて切であったので、鶴鳴はいよいよ喜ばなかった。
  • 廷弼はそこでまた関を出て右屯に至り、重兵で内は広寧を護り、外は鎮武・閭陽を扼することを議し、劉渠に二万人で鎮武を、祁秉忠に一万人で閭陽を守らせ、また羅一貫に三千人で西平を守らせた。さらに令を申した――敵が来て鎮武を一歩でも越えたら、文武の将吏は誅して赦さぬ。敵が広寧に至って鎮武・閭陽が挟撃せず、右屯の餉道が掠められて三路が救援せぬ場合も同じである、と。
  • 部署が定まったばかりのところ、化貞はまた間諜の言を信じて、にわかに兵を発して海州を襲おうとし、ほどなくまた退いた。廷弼はそこで上言した。
  • 撫臣の進軍は今で五度目である。八、九月のあいだは進んでは止まり、進んでは止まったが、まだ疏で請うことはなかった。十月二十五日の役に至っては、疏を拝すやたちまち行ったものである。臣が急ぎ関を出たときには撫臣はもう帰っていた。
  • 西平の会では互いに心を協せて守りを議し、掎角に営を設けたが、進兵の書はまた晦日に届いた。撫臣が十一月二日に鎮武へ赴いたので、臣もその翌日に杜家屯へ赴いたが、中途まで来たところで軍馬はまた帰されていた。
  • 五日、撫臣はまた軽兵で牛荘を襲い馬圏を奪って守り、来年の進兵の門戸にしようとした。当時、馬圏には敵兵が一人もおらず、牛荘を得ても我は守れぬ。敵に何の損があり、我に何の益があるか。たまたま将吏が力をこめて不可と持したので、撫臣も怏々として帰った。
  • 兵はしばしば進んではしばしば退き、敵にはもう手の内をすっかり見透かされ、臣の虚名もまた軽々しく出たことで損なわれた。願わくは陛下、撫臣に挙止を慎重にし、敵人に笑われぬよう明諭されたい。
  • 化貞は疏を見て喜ばず、馳せ奏して弁じ、かつ言った――願わくは兵六万を請い、一挙に蕩平したい。臣は天の功を貪らぬ。ただ従征の将士に厚く賚を賜り、遼民に十年の賦役免除を賜り、海内が加派を免れるなら、臣の願いは足りる。たとえ思うようにならずとも必ず殺傷は相当で、敵は再び振るえず、河西の憂いとならぬことは保証する、と。そして便宜に事を行うことを請うた。
  • 当時、葉向髙が再び国政に当たっており、化貞の座主であったので、かなりこれに味方した。廷臣では太僕少卿の何喬遠だけが「専ら広寧を守るべきだ」と言い、御史の夏之令は「蒙古は信ずべからず、款賞は益がない」と言い、給事中の趙時用は「永芳は必ず信ずべからず」と言って廷弼と合ったが、その他は多く化貞に味方し、廷弼の節制を受けさせぬようにした。給事中の李精白は化貞に尚方剣を授けて便宜に操縦させようとし、孫杰は劉一燝が高出・胡嘉棟・佟卜年を用いたことを罪として弾劾し、廷弼は関内に駐すべきでないと言った。
  • 廷弼は憤って上言した――臣は東西南北のみなが殺したがる人間でありながら、たまたま事機の処しがたい時に遭ったのだ。諸臣は封疆のために容れられるなら容れ、門戸のために容れられぬなら去らせればよい。何も内は閣臣を借り、外は撫・道を借りて困らせることはあるまい、と。さらに言った――経と撫が和せぬのは言官が控えているのを恃むから、言官が交々攻めるのは枢部が控えているのを恃むから、枢部が闘いを助けるのは閣臣が控えているのを恃むからだ。臣はもう望みがない、と。
  • 帝は両臣が争っているとして、兵部の堂官と給事中それぞれ一人を遣って諭し、抗って従わぬ者は罪に処すことにした。命が下ったのち、廷臣が官を遣るのは不便だと言ったので、廷臣を集めて議させた。
  • はじめ廷弼が関を出たとき、化貞は自分の兵権を奪われることを慮り、うわべは兵事を廷弼に委ねた。廷弼は上言した――臣は命を奉じて山海を扼するのであって、広寧は臣の私しうるところではない。撫臣は責を臣に卸すべきでない、と。ちょうど震孺の奏した経撫不和の中に「化貞は心が慵く意が懶い」という語があったので、廷弼はこれに拠って化貞を刺した。化貞はいよいよ喜ばなかった。
  • 化貞が「一挙に蕩平」を請うと、廷弼は「撫臣の約束どおりにするのがよい。急ぎ臣を罷めて士気を鼓されよ」と言った。
  • このとき中外はこぞって経撫不和が必ず疆事を誤ると知り、章が日ごとに上がったが、鶴鳴は篤く化貞を信じ、ついに廷弼を除こうとした。
  • 二年(1622年)正月、員外郎の徐大化が意を迎えて「廷弼は大言で世を覆い、能を嫉み功を妬む。除かねば必ず遼の事を壊す」と弾劾した。疏はあわせて部に下され、鶴鳴は廷臣を集めて大いに議した。廷弼の撤退を議した者が数人、あとの多くは責任を分任させるよう請うた。鶴鳴だけは「化貞が一たび去れば毛文龍は必ず命に従わず、遼人で兵となった者は必ず潰え、西部は必ず解体する。化貞に尚方剣を賜って専ら広寧を委ね、廷弼は撤して他に用いるべきだ」と言った。
  • 議が上がると帝は従わず、吏部・兵部の二部を責めて再び奏させた。ちょうど大清の兵が西平に迫ったので、議はやみ、なお二臣を兼任させ、功罪一体を責めることとした。
  • まもなく西平の囲みが急となり、化貞は中軍の孫得功の計を信じて広寧の兵をことごとく発し、得功および祖大寿に与えて祁秉忠と会して進み戦わせた。廷弼もまた劉渠に檄を馳せて営を撤して援に赴かせた。
  • 二十二日、平陽橋で大清の兵に遭い、鋒が交わったばかりのところで得功および参将の鮑承先らが先に奔ったので、鎮武・閭陽の兵はついに大潰した。劉渠・祁秉忠は沙嶺で戦没し、祖大寿は覚華島に走った。西平の守将である羅一貫は援を待ったが至らず、参将の黒雲鶴とともにこれも戦没した。
  • 廷弼はすでに右屯を離れて閭陽に次していた。参議の邢慎言が急ぎ広寧を救うよう勧めたが、僉事の韓初命に阻まれて退き還った。
  • 当時、大清の兵は沙嶺に頓して進まなかった。化貞はかねて得功を腹心としていたが、得功は□(底本欠字)して大清に降り、化貞を生け捕りにして功にしようと、「敵がすでに城に迫った」と偽って言い触らした。城中は大いに乱れて逃げ散り、参政の高邦佐が禁じたが止められなかった。
  • 化貞はちょうど役所を閉ざして軍書を処理しており、知らなかった。参将の江朝棟が扉を押し開けて入ると、化貞は怒って呵りつけた。朝棟は大声で「事は急です。公は速やかにお逃げください」と叫んだ。化貞はどうしてよいか分からず、朝棟が脇を抱えて出し馬に乗せた。二人の僕が徒歩で従い、ついに広寧を棄ててよろめきながら走った。
  • 大凌河で廷弼と出会うと、化貞は哭した。廷弼はかすかに笑って「六万の衆で一挙に蕩平するはずが、結局どうなったか」と言った。化貞は恥じ、寧遠と前屯を守ることを議したが、廷弼は「ああ、もう遅い。ただ潰えた民を護って関に入るほかない」と言った。そこで自分の率いる五千人を化貞に授けて殿とし、蓄えをことごとく焼いた。
  • 二十六日、韓初命とともに潰民を護って関に入った。高出・胡嘉棟が先後して入り、ひとり高邦佐だけが自ら縊れて死んだ。
  • 得功は広寧の叛将を率いて大清の兵を迎え入れたが、化貞が逃げてすでに二日経っていた。大清の兵は化貞らを二百里追いかけたが、食を得られず還った。
  • 報が京師に至って大いに震え、鶴鳴は懼れて自ら視師を請うた。二月、化貞を逮え、廷弼を罷めて取り調べさせた。

下獄・棄市と追贓

  • 四月、刑部尚書の王紀、左都御史の鄒元標、大理寺卿の周應秋らが獄詞を奏上し、廷弼・化貞はともに死罪に論じられた。
  • のち刑を行うにあたり、中書の汪文言が廷弼の冤を哀れみ、公卿のあいだを奔走して救おうとした。魏忠賢はこれを聞いて大いに恨み、速やかに廷弼を斬ることを誓った。
  • 楊漣らが下獄すると、廷弼の賄賂を受けたと誣いてその罪を重くした。ついで巡邏の者が市人の蔣應暘を捕らえ、「廷弼の子と禁獄を出入りしており、陰謀は測りがたい」と言った。忠賢はいよいよ速やかに廷弼を殺そうとし、その一党の門克新・郭興治・石三畏・卓邁らがそこで意を迎えて促した。
  • ちょうど馮銓もまた廷弼を恨んでおり、顧秉謙らと講筵に侍したとき、市で刊行された『遼東傳』を出して帝に讒して「これは廷弼が罪を脱れようとして作ったものです」と言った。帝は怒り、ついに五年(1625年)八月に棄市し、首を九辺に伝えた。
  • ついで御史の梁夢環が「廷弼は軍資十七万を侵盗した」と言い、御史の劉徽が「廷弼の家資は百万。籍没して軍を佐けるべきだ」と言った。忠賢はただちに旨を矯めて厳しく追徴させ、資産を尽くしても足りず、姻族の家までみな破産した。
  • 江夏知県の王爾玉が廷弼の子に貂裘と珍玩を出させようとし、得られぬので笞打とうとしたので、長子の兆珪は自ら首を刎ねて死んだ。兆珪の母が冤を訴えると、爾玉はその二人の婢の衣を剥いで四十回打った。遠近みな嗟き憤らぬ者はなかった。

徐爾一の訟冤

  • 崇禎元年(1628年)、詔があって追贓を免じた。
  • その秋、工部主事の徐爾一が廷弼の冤を訴えて言った。
  • 廷弼は封疆を失陥した罪で首を伝えられ屍を晒され、産を籍せられ贓を追われた。しかし臣が当年を考えるに、その罪は拠るに足るものがなく、その労には矜むに足るものがある。
  • 広寧の兵十三万、糧数百万はことごとく化貞に属し、廷弼は援遼の兵五千人だけで右屯に駐し、広寧から四十里であったにすぎない。化貞が突然三、四百万の遼民とともに一時にみな潰えたのに、廷弼の五千人が一緒に潰えなかっただけでも十分である。その上、屹然と堅く壁を守れと望めようか。廷弼の罪はどこにあるのか。
  • 化貞は西部を頼りにしたが廷弼は「必ず頼るに足らぬ」と言い、化貞は李永芳の内附を信じたが廷弼は「必ず信ずるに足らぬ」と言った。力争せぬ事は一つとしてなく、奇しくも的中せぬ言は一つとしてない。廷弼の罪はどこにあるのか。
  • しかも各鎮の節制が行われぬことをしばしば疏で争い、もとの配下の兵馬が与えられぬことをしばしば疏で争い、ただ虚器を擁して空名を抱くだけであった。廷弼の罪はどこにあるのか。
  • 唐の郭子儀・李光弼は九節度の師とともに潰えたが、潰兵を収めて河陽橋を扼するのが当然で、再び河陽に往って史思明に縛られるのを坐して待つ道理はない。いま広寧の西はただ関上の一門が限りである。急ぎ関門を扼せずして何を待とうか。史書に慕容垂の一軍三万だけが全きを得たとあるが、これも再び淝水に駐まって晋人と決戦する道理はない。廷弼が五千人を散らさずに大凌河に至り、化貞に付したのは、事はまさにこれに類する。どうして化貞と同日に論じられようか。
  • 労に矜むべきものがあるというのは、三路が同時に陥没し、開原・鉄嶺の関が相次いで潰えたとき、廷弼が経理して一年に及ばぬうちに、たちまち奉集・瀋陽を築き進め、たちまち虎皮駅に進屯し、たちまち横河の上に、遼陽の城下に敵兵を迎え扼し、河を鑿ち柵を並べ砲を埋めて屹然と金湯を樹てたことである。もし施すところを全うさせていたら、どうして楡口関外を挙げて手をこまねいて人に授けるに至ったろうか。それをいま一切抹殺して論じない。
  • そもそも彼が必ず死ぬに至った理由には別のわけがある。その才はすでに一時を覆い、その気はまた一世を凌いだ。弁明の掲示が紛々として衆の怒りに触れ、みなが殺意を起こしたのだ。これこそその身を必ず殺させた道である。
  • 廷弼が取り調べを受け逮えられたとき、天日はそのたびに光を失った。その冤を明らかにするに足る。願わくは昭雪を賜り、労臣への励ましとされたい。
  • 従われなかった。

韓爌らの帰葬請願と王化貞の伏誅

  • 翌年五月、大学士の韓爌らが言った。
  • 廷弼の遺骸は今に至るまで帰葬できずにいる。従来、国法にないことである。いまその子が帰葬を疏請したので、臣らは票擬して許そうと存ずる。国典と皇仁は並び行われて悖らぬもの、理としてこうあるべきである。
  • 廷弼の罪状の始末についても言うべきことがある。皇祖の朝の戊申・己酉のあいだ、廷弼は御史として遼東を按じ、早くから遼の患を憂え、地界を核べ、営伍を整え、南北の関を連絡するよう請うた。大声で疾呼したが人は応じず、十年して的中したのは左券のごとくである。言うべきことの一つ。
  • 戊午・己未、楊鎬が三路で師を喪い、撫順・清河が陥没した。皇祖は楊鶴の言を用いて廷弼を召し起こし鎬に代えた。一年余りで守具を修め整え、辺患はやや寧んじた。たまたま皇祖が崩じ、廷議は廷弼に戦功なしとして攻めて去らせ、袁應泰を代わりとしたところ、四か月を閲して遼は亡んだ。廷弼が在ったら必ずしもここまでは至らなかった。言うべきことの二つ。
  • 遼陽が失われると、先帝は廷弼の言を思って田舎から再び起こし、また経略に任じた。化貞は戦を主とし廷弼は守を主としたが、群議はみな化貞に理があるとした。廷弼はしばしば「師を弄べば必ず敗れる、奸細を防ぐべきだ」と言ったが、聴く者はなかった。徘徊躊躇して五千人で右屯に駐し、化貞は兵十三万で広寧に駐した。広寧が潰えれば右屯もともに潰えたのである。言うべきことの三つ。
  • 仮に廷弼がこのとき右屯を死守し、身を捐てて封疆に殉じていたら、なんと節烈の奇男子であったろう。そうでなくとも寧遠・前屯・錦州・義州のあたりを支えて、傷を扶け敗を救い、残った民を収拾すれば、なお桑楡の効を図り得た。それを倉皇として風の音、鶴の声にも怯え、化貞と馬を並べて関に入った。その心は「私はもともとこう言った。言って聴かれなかったのだから罪は減ぜられるべきだ」というのであろう。これこそ私心・短見である。身を殺したのはこのためで、身を殺して弁ずるところなく、公論もまたこのためである。首を辺庭に伝え、頭と足が処を異にしたのも、難に臨んで忠の乏しい者への戒めとするに足る。
  • しかし廷弼を誅した者が、封疆失陥の条に照らして同事の諸臣ともども一体に伏誅させていたなら、廷弼は九泉で目を瞑ったであろう。ところが先に賄贓で拷問し、楊漣・魏大中らを清流の陥穽に落とし、ついで書を刊して衆を惑わせ、題を借りて曲げて殺した。身が死んでもなお十七万の贓を坐せられ、辱めは妻子に及び、長子の兆珪は追い詰められて自刎した。これでは廷弼の死は心服されず、海内の忠臣義士も多くは憤り歎き、ひそかに嘆息する者が多い。ただ「封疆」の二字ゆえに口を噤んで皇上の前に訴えられずにいるのである。
  • 臣らが心を平らかにして論ずるに、遼の事が起こって以来、官を騙り私を営んだ者がどれほどいたか。廷弼は一金銭も取らず、一つの贈答も通じず、唇を焦がし舌を敝らして大計を争い言った。魏忠賢が威福を盗み、士大夫がなびき従ったとき、廷弼は長く繋がれて決を待つ身でありながら、屈すれば生き抗えば死ぬというのに、ついにその強直・自遂の性を改めず、ひとり顕戮を受けて慷慨として市に赴いた。耿々たる剛腸はなお尽きてはいない。
  • いま深く言うことは敢えてせぬが、首を伝えてすでに三年を越えた。収葬にもとより禁例はない。聖明は必ず仁を垂れられよう。臣らがくどくどとここまで及んだのは、この事は封疆に属するとはいえ、実はひそかに朝中の邪正の本末に繋がるからである。皇上は天縦の英哲であられ、あるいは臣らを大いなる誤りとはなさるまい。
  • 詔があってその子が首を持って帰葬することを許した。
  • 五年(1632年)、化貞がようやく処刑された。