出自と兵屯・財政の建言
- 魏呈潤は字を中嚴といい、龍溪の人。崇禎元年(1628年)の進士。庶吉士から兵科給事中に改められた。
- 三年(1630年)冬、兵屯の策を上疏した。順天・保定の両巡撫に命じて管下の壮士を、大邑は五百人、小邑は二三百人選び、営を分けて訓練させること。天津の翟鳳翀、通州の范景文、昌平の侯恂はいずれも節鉞を帯びているのだから、練兵のほかに屯田も兼ねさせること。あわせて閩海の剿撫の機宜六事を陳べ、いずれも議して行われた。
- 翌年夏、長い旱で言を求められたとき上疏した。
- 駅站の削減で浮いたのはわずか六十万で、軍餉の十分の一にも足りないのに郵伝はいよいよ疲弊し、勢い里甲を再び編むほかない。これでは肉を抉って瘡を治すようなもので、瘡が癒えぬうちに肉が先に潰える。
- 関外の旧兵は十八万、額餉は七百余万。いま兵は十万七千にすぎず、薊門の援兵を合わせても元の数を超えないのに、加派五百九十万のほかに新たに百四十余万を増している。それでも足りぬと憂えるのは、稽核が要るからではないか。
- 辺報が急を告げるのは臣子が功を言うときではないのに、小さな勝ちが頻りに聞こえるたびに高い官秩が飛び越えて加えられ、門客や下働きまで偽名で兵籍に入り、段階を踏まず昇進して俸料を食い潰している。臣はその続かぬことを懼れる。
- 江淮は旱害で、五湖のあたりは海岸が谷となった。旧穀は実らず新絲も熟していない。上供の織造はしばらく停めるべきである。
- 銓法は事例(前例)によって壊れ、正途はふさがる一方であるから疏通せねばならない。撫按の諸臣が資を捐じて餉を助けるのは、たいてい民間から取り立てたものである。急公の褒めを受けながら上は蒙り下は削られる。禁じ戒めねばならない。
- さらに数策を条陳して、北方の水政を大いに修めることを請うた。帝はみなその言を容れた。
朱之俊の弾劾と、王坤事件による貶謫
- 熹宗のとき、司業の朱之俊が国学の傍らに魏忠賢の祠を建てることを議し、「功は禹に下らず」との語を掲げて名簿を作り、諸生に寄付を割り当てた。帝が即位すると諸生の陸萬齢に罪を押しつけ、曹代何をもって自ら弁解した。首輔の韓爌が同郷のよしみで庇い、逆案から漏れた。
- このとき之俊はすでに侍講に遷っていた。呈潤はその奸を暴き、萬齢とともに西市で棄てるよう請うた。之俊はこれによって廃された。
- 宣府監視の中官王坤が、帳簿の乱れを理由に巡按御史の胡良機を弾劾した。帝は良機の官を奪い、そのまま王坤に取り調べさせた。呈潤は上言した――我が国家が御史を置いて九辺を巡らせるのは、秩は卑いが任は大きいからである。良機は先朝に逆璫(魏忠賢)を糾したために削籍された者。いま本当に罪があるなら回道考覈の法がある。それを王坤に付すとは。しかも辺事が日ごとに壊れるのは、羊十匹に牧者九人の病にある。将帥があり監司があり、督撫があり巡方があり、その上に監視がある。官が一つ出るごとに擾乱が一つ増える。中官の威は御史の十倍。御史がたまたま咎を得れば自分の命さえ保証できぬのに、誰がまた国事のために抗おうか。将来、九辺の消息や監視の善悪をどこから聞かれるのか。良機を召し返し、中官の鼻息をうかがわせないでいただきたい、と。
- 帝は呈潤が党を組んで比するとして三級を貶し、外へ出した。
附伝・胡良機
- 良機は南昌の人、字は省之。萬厯四十四年(1616年)の進士。天啟のあいだ御史となり、かつて「魏忠賢の悪は汪直・劉瑾に劣らぬ」と糾した。忠賢はこれを恨み、年例によって広東参議に遷した。良機はちょうど貴州を按じていたが、後任を待たずに去ったため庶人に斥けられた。
- 崇禎元年(1628年)にもとの官に起用され、宣府・大同の二鎮を按じた。任期満ちて交代すべきところ、敏練であるとしてさらに一年巡按した。そしてついに王坤に弾劾されて罷めた。
附伝・李曰輔
- 当時また御史の李曰輔も中官を論じて譴めを受け、廷臣が重ねて章を上げて論救したが聴かれなかった。
- 曰輔は字を元卿といい、これも南昌の人で、胡良機と同郷。萬厯年間に郷試に挙げられ、成都推官となった。巡撫の朱燮元と兵事を計り、諸将とともに重慶を攻め復した。
- 崇禎四年(1631年)、南京御史に抜擢された。当時、中官が四方に出ていた――張彝憲は戸部・工部の銭糧を総理し、唐文征は京営の戎政を提督し、王坤は宣府の餉を監し、劉文忠は大同の餉を監し、劉允中は山西の餉を監した。さらに王應期に関寧の軍を監させ、張國元に東協の軍を監させ、王之心に中協の軍を監させ、鄧希詔に西協の軍を監させ、また吳直に登島の餉を監させ、李茂奇に陝西の茶馬を監させた。
- 曰輔は上疏して諫めた――近ごろ一日に内臣を四人遣わし、ほどなくまた五人を用いられた。いずれも兵機の要地である。廷臣がまさに重ねて章を上げているところへ、登島と陝西にまた二人の宦官を遣わされる。専擅の権を仮し、中外の耳目を驚かせ、水火の隙を啓き、依附の門を開き、任事の心を灰にし、責任逃れの口実を与える。臣は愚かながら実に寒心いたします。陛下は即位の初め、内臣をことごとく撤して中外は聖と称えました。昔は何ゆえ撤し、いまは何ゆえ遣わされるのか。天下多事のいまは将を択ぶのが先。陛下は黄金台を築いて廉頗・李牧を招かれず、ひたすら内臣を遣わされる。乱を治めるのに何の助けがありましょうか、と。
- 帝は怒り、曰輔を広東布政司照磨に謫した。
附伝・趙東曦
- 東曦は字を馭初といい、上海の人。萬厯四十七年(1619年)の進士。
- 崇禎五年(1632年)、知県から刑科給事中に入り、辺塞で屯田を興して軍用に充てることを請うたが返答がなかった。
- ちょうど宣府の辺塞で無断の講和事件があり、宣府の餉を監していた王坤が交代を請うた。東曦は上言した――宣塞の失態に陛下は赫然と震怒され、巡撫の沈棨を逮え、本兵の熊明遇を罷めた。ところが監視の王坤はそのとき城楼で会飲し和議を相談していた。辺臣は庇護を頼み、欺き隠すことが日ごとに甚だしい。王坤は同罪を免れぬのに、逆に辺の烽火が消えたことを自分の功と誇り、しかも交代を請うている。そもそも内臣の派遣は陛下が一度用いられただけで不変の典ではない。いまことごとく撤しても遅いくらいだ。それを王坤が交代を請うて、去った後の取り繕いを図っている。願わくは陛下、王坤の罪を正し、各使を撤して京へ還されよ、と。
- 帝は「宣鎮の擅和は実は王坤の奏によって発覚したのだ。何が欺き隠すか」と言い、東曦を外任に調して福建布政司都事に謫した。
- のち呈潤は起用されて光禄署丞で終わり、良機は光禄典簿に起き南京吏部主事で終わった。東曦はやや遷って行人司正・礼部郎中となり、使を奉じて郷里に還った。福王のとき東曦を給事中に、曰輔を御史に召したが、二人ともすでに死んでいた。