明史卷二百五十七 列傳第一百四十五 馮元颷
慈谿の人、字は爾□。南京太僕少卿馮若愚の子で、兄の元颺とともに同じ年に郷試に及第し、兄弟そろって中官の派遣に反対する直言で名を得て「二馮」と称された。給事中として周延儒・王應熊を強く弾劾し、鳳陽皇陵の焼失後には輔臣が票擬の責任から逃げる姿勢を痛論した。黄道周が張至發に抑えられたときも庇って争った。崇禎十五年に兵部右侍郎、翌年に兵部尚書となり帝の信任を受けたが、河南・湖廣が陥ち関寧も警報続きのなかで為すところなく、病を理由に辞去した。孫傳庭が関中で軽々しく戦うべきでないと見抜き、身を賭して諫めた点では見識があった。後任に李邦華・史可法を薦めたが用いられず、都城はほどなく陥ちた。福王の時に没した。
年表(9件)
- 天啟元年1621年兄の元颺とともに郷試に及第する
- 1622年進士に及第し、澄海・揭陽の知県を歴任する
- 崇禎四年1631年召されて戸科給事中となり、中官を地方の鎮に遣わすことに力争する
- 崇禎八年1635年春に帰朝し、輔臣が票擬の責任を避けて聖裁と六部に委ねる弊を論ずる
- 崇禎十五年1642年六月に兵部右侍郎を拝し、陳新甲の処刑後は部の事務を代行する
- 崇禎十六年1643年五月に兵部尚書となるが、八月に病を理由に辞去を許される
- 崇禎元年1628年兄の元颺が進士に及第し、都水主事に任じられる
- 崇禎十一年1638年元颺が濟南の兵禍に際して濟寜兵備の事を代行する
- 崇禎十四年1641年元颺が十月に右僉都御史へ抜擢され、天津を巡撫して遼餉の督を兼ねる
出自と言官時代
- 馮元颷は字を爾□(底本欠字)といい、慈谿の人。父の若愚は南京太僕少卿。天啟元年(1621年)、元颷は兄の元颺とともに郷試に及第し、翌年、元颷は進士となった。澄海・揭陽の知県を歴任した。
- 崇禎四年(1631年)、召されて戸科給事中に任じられた。帝が中官を遣わして地方の鎮に出したとき、元颷は力争した。当時、元颺も上疏して中官を論じ、兄弟ともに直言の名声があった。
- まもなく上疏して周延儒を強く罵り、切責された。まもなく山東總督の劉宇烈が寇を放任して招撫を主張した罪を論じ、また禮部侍郎の王應熊は大臣の体をなさぬから罷めるべきだと言った。さらに詞臣の姚希孟は孤忠にして独立しており講官を奪うべきでなく、科臣の趙東曦は正しい言葉で率直に論ずるので言路を奪うべきでないと薦めたが、いずれも容れられなかった。
- 應熊が吏部への転任を謀ると、元颷はまたその貪汚の数件を拾い上げて弾劾し、旨を受けて叱責されたので、休暇を乞うて帰郷した。
- 八年(1635年)春に帰朝した。当時、鳯陽の皇陵が焼かれ、廷臣は次々と温體仁・王應熊が徒党を組んで国を誤ったと論じた。元颷は上言した。政の根本を担う大臣は実を取って名を避け、功を受けて罪を辞し、平時は威を養って自ら重んじ、天下に事があるとすぐ「本朝にはもともと宰相の名は無い、我らはただ票擬を供するだけだ」と言い、上は聖裁に委ね下は六部に委ねて、片言をもって百の欺きを積み重ねる。そもそも中央地方の責任で票擬より大きいものがあろうか。漢唐の宰相の名を持ちながらさらに天子の言葉に代わり、国初の顧問の栄誉を持ちながら位号も高く、帝に近く勢いは険しく、言えば聴かれ志は行われ、権柄の用い方が専らかつ重い者は今日ほどのものはない。それでなお天下への責めを謝せようか、と。
- 禮科右給事中に遷り、重ねて刑科左給事中に遷った。しばしば部の囚人には軽罪が多いと言って帝に寛宥を請い、いずれも採用された。
- 詔により東宮の講官を選ぶことになったとき、左諭徳の黄道周が首輔の張至發に抑えられ、しかも疏で罵られた。元颷は、道周は至って清く仲間を持たないが忠は人主を動かすに足る、ただ執政の歓心を得られないだけだ、と言った。至發は怒って二度の疏で元颷を罵ったが、帝はいずれも放置して問わなかった。
- 戸科都給事中から太常少卿に抜擢され、南京太僕卿に改まり、そのまま通政使に遷った。
兵部尚書と辞任
- 十五年(1642年)六月、召されて兵部右侍郎を拝命し、左侍郎に転じた。
- 元颷は知略に富み権謀を尊び、兄の元颺とともに人と結ぶことを好み、当時こぞって「二馮」と称された。しかしもと馮銓と同族の誼を通じていた。はじめ言路にあって周延儒を罵ったが、侍郎となる頃には延儒がちょうど再び宰相となっていたので、元颷はこれと親しくした。延儒は飢饉救済を銓の功として冠帯を復させようとしたが衆議を憚った。元颷は吳甡を入閣させてこれを助けさせたが、やがて甡は延儒に背いた。熊開元が延儒の罪をすべて暴こうとしたのを元颷が阻み止め、開元はこれによって重い譴責を受けた。
- 兵部尚書の陳新甲が処刑されると、元颷が部の事務を代行した。ある日、帝が諸大臣を召して西苑に遊び明徳殿で宴を賜り、ついで兵事を長く論じ、御馬の良いもの百餘匹と内製の火箭を出して順に元颷に示した。元颷がその良し悪しを見分けたので、帝は「大司馬が長く欠けているが、卿に越す者はない」と言った。元颷は病が多いことを理由に辞し、そこで張國維が用いられた。
- 十六年(1643年)五月、國維が獄に下ったので、元颷を尚書とした。帝はこれを甚だ頼りにしたが、元颷はかえって為すところがなかった。河南・湖廣の地はことごとく陥ち、関寧もまた日々警報を告げた。八月に至って病が重いとして引退を乞うたが、帝は慰留して瓜や果物・食物を賜り医者を遣わして診させた。請いがいよいよ固かったので、その辞去を許した。
- 元颷はかなり事を見通す力があった。孫傳庭が関中で兵を治めたとき、元颷は軽々しく戦うべきでないと言った。廷臣の多くは、戦わなければ賊はいよいよ勢いを増し兵は長く置けば臆病になると言ったが、元颷は、将士は臆病に慣れて未だ実戦を経ていないのだから、賊をこちらへ招き寄せるべきで賊のもとへ招き寄せられるべきではないと言い、帝の前で争って「まず臣を獄に下し、一戦して勝ったら臣を斬って詫びられよ」と言った。また傳庭に書を送って軽々しく闘わぬよう戒め、白・髙の両将は任せられないと言った。傳庭は果たして敗れた。
- 帰るにあたり李邦華・史可法を自分の後任に薦めたが、帝は用いず、兵科都給事中の張縉彥を用いた。都城はついに守れなかった。
- 福王の時に元颷は没した。その家が弔いを請うと、給事中の吳适は、元颷は特別の抜擢を身に受けながら一つの策も展べられなかった、祭葬を与えるのは国を誤った臣に生死ともに志を得させることだ、と言った。しかし部の議は結局その請いの通りにした。
馮元颺
- 馮元颺は字を爾賡といい、崇禎元年(1628年)の進士。都水主事に任じられた。帝が中官の張彝憲を遣わして戸部・工部二部の事を総理させたとき、元颺は抗議の疏を上げ、内臣は別に役所を立てるべきで二部の堂に居座るべきではなく、二部の属官もまた彝憲の門に出入りして交結の禁を犯すべきではないと言った。帝は名を売っていると責め、彝憲も怒った。元颺は休暇を請うて帰郷した。
- まもなく禮部主事に起用され員外郎に進み、蘇松兵備參議に遷った。温體仁が国政を執り唐世濟が都御史で、いずれも烏程の人であった。その郷里の者が太湖で盗をなし両家を後ろ盾にしていた。元颺はその首魁を捕らえたが、世濟の一族の子であった。これを法にかけた。
- 福建提學副使に遷ったが、巡撫の張國維が奏して留めた。太倉の人の陸文聲が、その郷官の張溥・張采が復社を唱えて天下を乱していると告発した。巡按の倪元珙がこれを元颺に委ね、元颺は溥らを大いに称えた。元珙はそれに拠って報告したが、體仁が文聲を庇ったので二人はともに譴責を受け、元颺は山東鹽運司判官に落とされた。
- 十一年(1638年)、濟南が兵禍に遭い、濟寜兵備の事を代行した。十四年(1641年)、天津兵備副使に遷り、十月、右僉都御史に抜擢されて李繼貞に代わり天津を巡撫し遼餉の督を兼ねた。翌年、軍功を叙して子一人に錦衣衛を蔭した。
- 当時、元颷はすでに中枢を掌っており、帝はその兄弟を厚く遇して、かつて宮中の人参を賜って元颺の病を治療させた。元颺は老衰を理由に引退を乞い、詔により李希沆を遣わして代えさせたが、着任しないうちに京城が陥ちた。元颺は海路から脱出して帰り、その秋九月に没した。
史論
- 賛にいう。明の末は辺境に事が多く兵部の長官の権を重んじたが、その位に居る者はかえって凡庸で暗く無能な輩が多かった。張鶴鳴が王化貞を任じ、陳新甲が丁啟睿を挙げたのは、いずれも人を知ることに暗い例である。松山の役に至っては、その国を誤ったことは言い尽くせようか。梁廷棟が民の窮乏の原因は官の貪欲にあると言ったのはもっともらしいが、それに乗じて加派の説を売り込んだのは、いわゆる亡国の言である。