明史卷二百五十七 列傳第一百四十五 陳新甲
長夀の人。萬厯の挙人で定州知州から身を起こし、寜前兵備として関外の要地に臨んで才を知られた。宣府巡撫として自ら辺塞を歩いて軍備の荒廃を洗い出し、楊嗣昌に見込まれて奪情のうえ宣大總督に抜擢された。崇禎十三年、挙人出身では宏治の賈俊以来という異例で兵部尚書となり、保邦の十策を献じたが、錦州の囲みに際して洪承疇の慎重論を退けて進軍を急かし、松山の大敗を招いた。清廉を保てず債帥を用い中官の王徳化と結んで言路の攻撃をしのいだが、帝の密命で進めていた大清との和議の密書を家僮が塘報と取り違えて写し回したため露見し、周延儒らの助命も容れられず市で処刑された。楊嗣昌に引き立てられ、才も心術もこれに似た人物であった。
年表(10件)
- 崇禎元年1628年中央に入って刑部員外郎となり、のち寜前兵備僉事に遷る
- 崇禎四年1631年大凌の新城が破れて削籍に坐すが、巡撫方一藻の惜留により留任する
- 崇禎七年1634年九月、右僉都御史に抜擢されて宣府を巡撫する
- 崇禎九年1636年五月、母の喪により帰郷する
- 崇禎十一年1638年六月、楊嗣昌の推薦で喪を切り上げ、盧象昇に代わって宣大の防衛にあたる
- 崇禎十三年1640年正月、傅宗龍に代わって兵部尚書となり、保邦の十策を献ずる
- 崇禎十四年1641年三月に福王・襄王が難に遭い、三階を降されたまま職務に当たる
- 崇禎十四年1641年八月、催促に押された洪承疇の軍が松山で大敗し、士卒数萬を失う
- 崇禎十五年1642年三月、松山・錦州が相次いで失われ、言官の弾劾が集中する
- 崇禎十五年1642年七月、和議の密書漏洩により獄に下され、市で処刑される
出自と宣府巡撫
- 陳新甲は長夀の人。萬厯の時に郷試に及第し、定州知州となった。崇禎元年(1628年)、中央に入って刑部員外郎となり郎中に進み、寜前兵備僉事に遷った。寜前は関外の要地で、新甲は才能で知られた。
- 四年(1631年)、大凌の新城が囲まれ援軍が雲集したが、徴発も修繕もすべて新甲に頼った。城が破れると官籍を削られることに坐したが、巡撫の方一藻がその才を惜しんで留めることを請い、返答がなかった。監視中官の馬雲程もこれを言い、そこで許可された。新甲は、臣は過ちを許される恩を蒙ったが監視の疏によって下されたもので、この心は明らかにならず世評が付いて回るので受けるに忍びないと言ったが、許されなかった。まもなく副使に進み、引き続き寜逺に臨んだ。
- 七年(1634年)九月、右僉都御史に抜擢され焦源清に代わって宣府を巡撫した。新甲は軍備が長く弛んでいたので、自ら辺塞の垣を歩き前任者の足跡の及ばぬ所まで巡って、士馬の損耗、城堡の崩れ、弓矢や武具の朽ちた有様をことごとく把握し、たびたび上疏して朝廷に整備を請うたので、辺防はこれに頼った。楊嗣昌が総督となって共に事に当たり、これによってその才を知った。
- 九年(1636年)五月、母の喪で帰郷した。十一年(1638年)六月、宣大總督の盧象昇が父の喪に遭い、嗣昌はちょうど中枢にあって新甲が代われると薦めた。詔により兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢され、喪を切り上げさせて任じられた。
- ちょうど大清の兵が三路から南下し、詔により新甲は交代を受けて部下の兵を督し協力して防いだ。まもなく象昇が戦死し孫傳庭が代わってその軍を統べたが、新甲は互いに頼り合ってついに戦おうとしなかった。
- 翌年春、畿輔の戒厳が解けると、順天巡按の劉呈瑞がその前後の逗留と怯懦を弾劾した。新甲は功の次第を歴陳し、あわせて呈瑞は恨みを挟んでいると言い、帝は問わなかった。
- 鎮に赴いてからは、隊伍の編成、偵察の厳格化、訓練の明確化、馬政の整備、火器の訓練、収奪の禁止などの諸事を上申し、許可された。麾下の兵が夜に騒いだので新甲は罪を請うたが、これも問われなかった。給事中の戴明説がかつてこれを弾劾したが、帝は重臣を軽々しく議したとしてその俸を停めた。
兵部尚書としての建言
- 十三年(1640年)正月、召されて傅宗龍に代わって兵部尚書となった。宏治のはじめの賈俊以後、乙榜(挙人)出身で尚書に至った者はいなかったが、軍事がまさに急で諸大臣が中枢の職を避けたため新甲が就くことができた。
- 拝謁を終えると保邦の十策を陳べた。多くは廷臣がすでに言ったものであったが、ただ天夀山の後ろに總兵を置くべきこと、徐州にも重鎮を置いて両京の咽喉に通じ、南は鳯陵を守り中は漕運を防ぐべきことを言い、帝はいずれも採用した。さらに枢政の四要と兵事の四失を陳べ、帝はただちに実行を命じた。
- 十四年(1641年)三月、賊が雒陽・襄陽を陥れ福王・襄王の二王が難に遭ったので、新甲は三階を降されたまま職務に当たった。
- 旧制では府州県の城郭を守り切れなかった者は長吏を死罪と論じたが、宛平知縣の陳景が、村鎮を三か所焼かれ掠奪された場合も長吏は辺境に戍らせるべきだと建言した。新甲はその議を支持し、役人が郷と城を兼ねて守れれば厚く叙し、四郊が寇に遭った場合は機を逸したのと同じく論ずべきだと言い、帝はただちに従った。しかし当時は中原がみな盗賊であったので、その法も行うことができなかった。
- 楊嗣昌が軍中で没すると、新甲は丁啟睿を挙げて代えさせ、議者はその人選の誤りをとがめた。しかし傅宗龍・孫傳庭がともに軽い罪で獄に繋がれていたのを、新甲は召対の時にその才を称え、退いてまた上章して力めて薦めた。二人が用いられたのも新甲の力である。
- まもなく秋の防衛の功を論じて降された階を復された。
松山の敗戦
- 当時、錦州は長く囲まれて声援も断たれていた。逃れ出た兵が祖大夀の言を伝え、車営で押し詰めて軽々しく戦わぬよう請うた。總督の洪承疇は兵数萬を集めて援けたが、やはり決戦を敢えてしなかった。
- 帝が新甲を召して策を問うと、新甲は閣臣および侍郎の吳甡と計ることを請い、十の憂うべきことと十の議すべきことを陳べ、職方郎の張若麒を遣わして承疇と面談させた。若麒が返らぬうちに新甲は四道に分けて挟撃することを請うたが、承疇は兵を分ければ力が弱まるとして慎重に構えて待つことを主張した。帝はそれを是としたが、新甲は前の議を固執した。
- 若麒はもとより粗忽で気短な男で、諸軍が少し斬獲を得たのを見て囲みはたちどころに解けると言い、密奏で上聞した。新甲はまた書を送って承疇を急かした。承疇は新甲の言に追い立てられ、また密勅を奉じていたので、ついに前の議を主張できなくなった。若麒はいよいよ諸将に進軍を促した。
- 諸将は八月に松山に陣したが、大清の兵に破られて大いに潰え、士卒の死者は数萬人に及んだ。若麒は海路から逃げ帰った。言官がその処罰を請うたが、新甲は力めて庇い、さらに関を出て監軍させた。
- 錦州の囲みは解けず、承疇もまた松山で囲まれた。帝は深く憂えたが新甲は救えなかった。
- 十五年(1642年)二月、御史の甘惟爃が、新甲は謀に乏しく国を誤ったとして速やかに賢者を挙げて自ら代えさせるよう請うたが、容れられなかった。三月、松山・錦州が相次いで失われ、若麒はまた寧逺から逃げ帰った。言官で若麒を弾劾する者はいずれも新甲にまで及んだ。新甲はしばしば罷免を乞うたが、いずれも許されなかった。
- 新甲は平素から才があり辺境の事に通じていたが、清廉を保てず、用いる者の多くは債帥であり、深く中官と結んで後ろ盾とし、司禮の王徳化ととくに親しかった。だから言路の攻撃は通らなかった。
- 当時、闖賊が河南を蹂躙し開封はしばしば囲まれ、他の郡県も相次いで失われた。總督の傅宗龍・汪喬年が関を出て賊を討ったが先後して陥り死に、賊の勢いはいよいよ盛んになった。言官で新甲を弾劾する上章は数十に至り、新甲が罪を請う上章も十餘に上ったが、帝はそのつど慰留した。
和議の漏洩と処刑
- はじめ新甲は南も北も窮しているとして使者を遣わして大清と和を議し、ひそかに傅宗龍に語った。宗龍は都を出る日にこれを大學士の謝陞に語った。陞は後に辺境の事が大いに壊れるのを見て宗龍の言を帝に述べた。帝は新甲を召して詰責し、新甲は叩頭して謝罪した。陞は進み出て、もし和を議されるおつもりがあるなら和もまた頼みにできますと言った。帝は黙っていた。
- まもなく新甲に諭してひそかにこれを図らせたが、外廷は知らなかった。のちに言官が陞に会うと、陞は「上の意は和にある。諸君どうか多言されるな」と言った。言官は驚き怪しんで次々と陞を弾劾し、陞はついに斥けられて去った。
- 帝はすでに和議を新甲に委ねており、往復した手詔は数十通、いずれも洩らすなと戒めていた。外廷も次第に知るようになりしばしば疏で争ったが、証拠は得られなかった。
- ある日、遣わしていた職方郎の馬紹愉が密書で報告してきた。新甲はこれを見て机の上に置いたところ、家僮が塘報(公開の軍事報告)と勘違いして書き写しに回してしまった。そこで言路は騒然となり、給事中の方士亮がまずこれを論じた。帝は甚だ怒り、疏を留め置いて下さなかった。やがて厳しい旨を下して切責し新甲に自ら陳弁させたが、新甲は罪を認めず逆に自分の功を誇ったので、帝はいよいよ怒った。
- 七月に至って給事中の馬嘉植が重ねて弾劾し、ついに獄に下された。新甲は獄中から上書して赦しを乞うたが許されなかった。新甲は免れないと悟り、内外に広く金を贈った。給事中の廖國遴・楊枝起らが刑部侍郎の徐石麒に助命を働きかけたが、石麒は拒んで聴かなかった。大學士の周延儒・陳演も帝の前で力めて救い、あわせて「国法では敵兵が城に迫らなければ大司馬を殺さない」と言った。帝は「他は論じぬとしても、我が親藩を辱め殺されたのは城に迫るより甚だしくないか」と言い、ついに新甲を市で処刑した。
- 新甲は楊嗣昌に引き立てられた者で、その才も品も心術も嗣昌に似ていた。軍書がひっきりなしでも裁決と返答に滞りがなく、帝ははじめ甚だこれを頼りにしたが、晩年にはとりわけ機密を洩らし主君の過ちを世に明らかにしたことを憎み、だから殺すのに躊躇しなかった。
- その後、給事中の沈迅が力めてその失を罵ったところ、帝は「お前を新甲にしたら、おそらくもっと及ぶまい」と言い、迅は恥じて退いた。
- 新甲がはじめ陽和から都門に入ったとき黄色い霧が四方を塞ぎ、識者は不吉と考えたが、ここに至って果たしてその通りになった。