明史卷二百五十七 列傳第一百四十五 董漢儒

出自と湖廣巡撫

  • 董漢儒は開州の人。萬厯十七年(1589年)の進士で、河南府推官に任じられた。中央に入って戸部主事となり、上疏して織造の削減や余分な支給の整理などを陳べ、あわせて「近ごろ宮門と三殿の間ではただ酒に耽り刑を濫用し財を貪ることばかり聞く。時事の憂うべきは国家財政が日々窮するというだけにとどまらない」と言った。返答はなかった。
  • 朝鮮で再び用兵すると、郎中として出て兵糧の事を管した。まもなく山東僉事に遷って副使に進み、湖廣の左布政使・右布政使を歴任して赴任先ごとに評判を得た。
  • 四十年(1612年)、そのまま右副都御史を拝命して同地を巡撫した。帝が福王に荘田を賜り湖廣に四千四百餘頃を割り当てたので、漢儒は当てる田がないとして年に萬金を納めて租に代えることを請うたが聴かれなかった。
  • 楚宗の五十餘人が偽王の一件を告発して罪に問われ十年も囚われていた。漢儒は王が偽物であることを力説して囚われた者の釈放を請うた。また滿朝薦・卞孔時らのために赦しを乞うたが、いずれも返答がなかった。喪のため帰郷した。

兵部尚書としての建言

  • 光宗が即位すると召されて工部右侍郎を拝命し、すぐに兵部に改まって宣府・大同・山西の軍務を総督した。
  • 天啟の改元(1621年)、遼陽が失われると精兵二千を選んで京師の守りに入れ、詔で褒められた。
  • 翌年秋、左侍郎として戎政を協理することになったが、着任せぬうちに兵部尚書に抜擢された。当時すでに遼の地はすべて失われており、漢儒は降将の劉世勛ら二十九人を逮捕して裁きその家族をただちに誅し、逃亡した将の蔡汝賢らを誅することを請い、許可された。
  • 毛文龍は海外にあってしばしば虚言で朝廷を欺き、登萊巡撫の袁可立が毎度代わって奏請していた。漢儒は、文龍の計画は粗雑で虚名を長く頼みにはできないと言い、また逃亡した将の管大藩・張思任・孟淑孔らを誅するよう請い、言葉は甚だ切実であった。帝は思任らを逮捕して裁くよう命じたが、大藩はついに放置して問わなかった。
  • 諸鎮から遼に援けに出た軍は多く逃亡し、塞を出て察罕の部に身を投じる者もあった。漢儒は、捕らえたらただちに誅し、同じ隊で互いに捕らえた者には重く賞し、かつ兵糧を期日どおり支給すれば逃亡者は自然と減ると請い、帝も喜んで容れた。
  • 宦官の王體乾・宋晉・魏忠賢ら十二人に旧功があるとして、蔭で与える錦衣の官をみな世襲とせよと命じられた。漢儒は祖宗の制度に拠って力争したが帝は従わなかった。給事中の程註・御史の汪泗論らが合同の疏で諫め、給事中の朱大典・周之綱、御史の宋師襄・胡良機が単独の疏で続いたが、ついに容れられなかった。
  • 漢儒はまもなく母の喪で帰郷した。その後、忠賢が大いに横暴となったので、漢儒は喪が明けても召されなかった。甘肅の功を追叙され、在家のまま太子太保に進み、子に錦衣百戸を蔭した。没して少保を贈られ、肅敏と諡された。

汪泗論

  • 汪泗論は字を自魯といい、休寜の人。祖父の垍は嘉靖年間の進士で、福建兵備僉事を歴任し福寜を分守した。倭が同安を犯したとき、垍は重罪の囚人七人を釈放して先鋒とし倭を撃退した。勝報が届いて金幣を賜った。
  • 泗論は萬厯三十八年(1610年)の進士。漳浦知縣に任じられ福清に転じて善政があった。屯田を整理し城堡を修繕した。召されて御史に抜擢され、まず内批を塞いで悪しき兆しを厳しく防ぐことを請い、また科臣の楊漣らを召還して士気を振るわせることを請うた。
  • 江西を巡按し、篤実で大局を重んじたので不正の徒は静まった。宗室の禄が足りなかったので、上疏して橋税と贖罪金の留保分で補うこととした。太僕寺少卿を歴任した。かつて生員の中から黄道周を見出し、人々はその鑑識の確かさに服した。