明史卷二百五十七 列傳第一百四十五 趙彥

出自と山東の海防

  • 趙彥は膚施の人。萬厯十一年(1583年)の進士で、行人に任じられ、たびたび遷って山西左布政使となった。光宗が即位すると右僉都御史として山東を巡撫した。
  • 遼陽が失われると、彥は兵を増して諸島を守り、特に大将を登州に置くことを請うた。登萊に鎮を設けたのはこれに始まる。
  • 天啟二年(1622年)、廣寜もまた失われた。彥は山東が南北の咽喉にあたるとして八事を上申し、詔により多くが実行を許された。

白蓮教の由来

  • これより先、薊州の人の王森が妖狐の異香を得て白蓮教を唱え、自ら聞香教主と称した。その徒には大傳頭・小傳頭および會主という称号があり、畿輔・山東・山西・河南・陜西・四川に広がった。森は灤州の石佛莊に住み、徒党は金銭を納めて朝貢と称し、竹の割符を飛ばして重要事を報じ、一日で数百里に達した。
  • 萬厯二十三年(1595年)、役人が森を捕らえて死罪と論じたが、賄賂を使って釈放された。そこで京師に入って外戚や宦官と結び、平然と教えを広めた。
  • 後に森の徒の李國用が別に教えを立てて符呪で鬼を呼んだため、両教が争って事が全て露見した。四十二年(1614年)、森はまた役人に捕らえられ、五年を過ぎて獄中で死んだ。その子の好賢および鉅野の徐鴻儒、武邑の於宏志らがその教えを継ぎ、徒党はいよいよ増えた。

徐鴻儒の乱の平定

  • ここに至って好賢は、遼東がすべて失われ各地の悪民が事を起こしたがっているのを見て、鴻儒らとその年の中秋にともに挙兵することを約した。ところが謀が漏れたので鴻儒は期日より先に反乱を起こし、自ら中興福烈帝と号し、大成興勝元年と称し、赤い頭巾を目印とした。
  • 五月戊申、鄆城を陥れ、まもなく鄒・滕・嶧を陥れ、衆は数萬に達した。当時は太平が久しく続いて郡県に守備がなく、山東にはもともと重兵を置いていなかった。
  • 彥は都司の楊國棟・廖棟を任じ、管下に檄を飛ばして民兵を訓練させ諸要地の守備兵を増やし、京師の操練の班軍および廣東の援遼軍を留めて動員に備えることを請うた。もと大同總兵官の楊肇基を推薦して起用し、山東總兵官として賊を討たせた。
  • 賊は肇基がまだ到着しないのに乗じて兖州を襲ったが、滋陽知縣の楊炳に退けられた。棟らが賊を撃破して鄆城を回復した。その別部が鉅野を襲ったが知縣の趙延慶が固守して落ちず、國棟の兵が到着してこれを破り、また兖州を襲った者も破った。
  • そこで棟らと合わせて鄒縣を攻めたが兵が崩れ、遊擊の張榜が戦死した。賊は曲阜・郯城を囲んだがまもなく敗れ去り、嶧縣を回復した。
  • 七月、彥は兖州で軍を視察した。城を出たばかりのところで賊一萬餘に遭い、彥は縄で吊り上げられて城に入った。肇基が急いで迎え撃ち、國棟と棟に挟撃させて横河でこれを大敗させた。
  • 当時、賊の精鋭は鄒と滕の中間の道に集まっていた。彥は鄒・滕を攻めようとしたが、副使の徐從治が「鄒・滕を攻めても落としにくい。その中核を突いた方がよく、そうすれば両城も手に入る」と言った。彥は肇基とともに遊撃の兵で鄒城の賊を引きつけ、大軍で黄隂の紀王城において賊の精鋭を撃って大敗させ、追い詰めて嶧山で殲滅した。
  • そこで鄒を囲み大小数十戦したが城は落ちなかった。天津僉事の來斯行および國棟らに命じて隙に乗じて滕縣を回復させ、國棟はまた沙河で賊を大破した。そこで長囲を築いて鄒を攻めた。鴻儒は三か月持ちこたえたが食糧が尽き、賊の一党はことごとく出て降り、鴻儒は単騎で逃げたが捕らえられた。その衆四萬七千餘人を招撫した。
  • 彥は功績を記して廟に告げ、捕虜を献じて鴻儒を市で磔にした。鴻儒は山東を荒らすこと二十年、徒党は二百萬を下らなかったが、ここに至ってはじめて誅に伏した。
  • 於宏志もこの年六月、武邑の白家屯に拠り景州を取って鴻儒に呼応しようとした。斯行はちょうど山東に援けに赴いていたが、軍を返してこれを討った。宏志は囲みを破って逃げたが生員の葉廷珍に捕らえられた。事を起こしてから七日で滅んだ。好賢も捕らえられて誅に伏した。
  • 彥はすでに兵部侍郎を加えられていたが、功を論じて尚書兼右副都御史に進み、重ねて太子太保を加えられ、子に錦衣の世襲僉事を蔭し、銀幣の賜与も等級を上げられた。救済を奏請し、あわせて鄒・滕の賦を三年、鄆城・嶧・滋陽・曲阜を一年、鉅野をその半分免除し、いずれも許された。

兵部尚書と失脚

  • 三年(1623年)八月、召されて董漢儒に代わり兵部尚書となった。辺境の将が兵糧をかすめ兵を私役し員数を水増しし馬を私有する諸弊を極言し、あわせて洗い直しの手順を条列した。帝は善しと称し、ただちに諸辺に下して実行させた。
  • 參將の王楹が辺境を巡行中に喀喇沁部に襲われて殺された。彥は事実を確かめて罪を論じ、あわせて諸辺の撫賞が従来の額を増やさぬよう命じることを請うた。
  • 大清の兵が喜峰口から侵入しようとしたので、彥はこれを憂えて八事を立てて上げ、帝は皆褒めて容れた。
  • 楊漣が魏忠賢の二十四罪を弾劾すると、彥も抗議の疏で弾劾し、これより忠賢に憎まれた。
  • 貴州の征苗の兵がたびたび敗れたので、彥は八策を列して献じ、詔により軍中に頒示された。
  • 彥は謀略があり軍事に通じていたが、妖賊を征討したとき諸将が多く良民を殺して功を偽り、またその子が錦衣の官に就いて都で派手に振る舞った。給事中と御史が次々に弾劾し、彥は三度上疏して罷免を乞うた。忠賢は前の恨みを挟んで伝馬で帰らせ、子は官籍を削られた。
  • はじめ妖賊が起こったとき遼東経略の王在晉が兵を遣わして討伐を助けたが、彥は功を叙するのに在晉に及ばなかった。在晉はこれを恨み、ここに至って南京吏部にあってしばしば彥を罵った。給事中の袁玉佩がそこで彥が功を偽り濫りに蔭を受けたと弾劾し、あわせて京観を築くべきでなかったと言った。詔によりその世襲の蔭を削られ、京観も毀された。
  • まもなく兵部在任時の辺功を追叙され、在家のまま太子太傅に進んだ。ほどなく没した。