明史卷二百五十六 列傳第一百四十四 畢自嚴

出自と地方歴任

  • 畢自嚴は字を景曽といい、淄川の人。萬厯二十年(1592年)の進士で、松江推官に任じられた。若くして才幹があった。
  • 召されて刑部主事となり、工部員外郎・郎中を歴任し、淮徐道參議に遷った。母の喪が明けて冀寧を分守し、河東副使に改まったが病を理由に去った。洮岷兵備參政として起用され、按察使として榆林西路の統治に移り、右布政使に進んだ。泰昌の時(1620年)に召されて太僕卿となった。

天津巡撫と海防

  • 天啟元年(1621年)四月、遼陽が陥ちると、廷議で天津巡撫を設けて専ら海防を整えることになり、自嚴を右僉都御史に改めて赴任させた。水軍を置き、戦艦を修繕し、武器を備えた。熊廷弼が立てた三方布置の策では天津がその一角にあたる。鎮海諸營を増設し、戚繼光の遺法を用いて水軍にまず陸戦を習わせたので、軍は使い物になった。
  • 魏忠賢が錦衣千戸の劉僑に天津の免職された将を逮捕させたとき、自嚴は駕帖(逮捕の令状)がないことを論じて上疏した。返答は「聞き置く」であった。
  • 各地で募った兵が日々逃亡したので、自嚴の意見によりその親族を押さえて隊伍を補充した。兵部主事の來斯行に軍略があったので、自嚴は監軍とすることを請うた。山東で白蓮の妖賊が起こると斯行に五千人を率いて向かわせ、功が多かった。
  • はじめ萬厯四十六年(1618年)、遼東で用兵し登萊の海運を行う議が起こった。翌年二月、特に戸部侍郎一人を設けて右僉都御史を兼ねさせ遼餉を督させた(詳細は李長庚の伝にある)。この時になって長庚が転じたので、自嚴を後任に命じた。先の平賊の功を叙して右都御史兼戸部左侍郎に進んだ。
  • 当時、天津巡撫を廃して督餉侍郎にその職務を兼ねさせる議があり、そのまま自嚴に委ねられた。
  • また朝鮮を討つ議が出たが、自嚴は、すぐに討つべきではない、朝貢を請い誠意を示して東征に力を尽くすのを待って、徐々に冊封を許すべきだと言った。
  • 京師でたびたび地震があったので、内批は慎むべき、恩沢は節すべき、人材は惜しむべき、内操は罷めるべきと言い、言葉は極めて率直であった。
  • 自嚴は数年在任し、細部まで検討して切り詰め、公私ともにこれに頼った。
  • 五年(1625年)、右都御史として南京都察院を掌り、翌年正月、そのまま戸部尚書に改まった。忠賢が南京太僕寺の牧馬草場を売って殿工の費用に充てる議を出したが、自嚴は不可と主張し、ついに病を理由に帰郷した。

崇禎の戸部尚書と財政の立て直し

  • 崇禎元年(1628年)、召されて戸部尚書を拝命した。自嚴は財政が大きく不足していたので、滞納税の調査、屯田の督励、勤務評定の厳格化、余剰兵の整理、薊・密・昌・永の四鎮で新たに増した鹽菜銀二十二萬の停止を請い、いずれも許可された。
  • 二年(1629年)三月の上疏では次のように述べた。諸辺の年例は遼餉のほかに銀三百二十七萬八千余。今、薊・密の諸鎮で三十三萬を節減してもなお二百九十四萬八千を要する。京師と辺境の歳入を合計すると、田賦百六十九萬二千、鹽課百一十萬三千、關税十六萬一千、雜税十萬三千、事例約二十萬、締めて三百二十六萬五千余。しかし滞納が続いて実収は二百萬に満たず、すべて辺餉に充てても余りがない。しかも京師支出の雑項が八十四萬、遼東提塘が三十餘萬、薊遼撫賞が十四萬、遼東の旧餉を新餉に振り替えたものが二十萬あり、支出が収入を超えることすでに百十三萬六千。まして宮中への供給・買い上げ・宣大の撫賞や臨時の入用は常額の外に出るものがある。廷臣に命じてそれぞれ意見を述べさせていただきたい、と。
  • そこで廷臣が競って献策し、自嚴は採れるものを選んでまず十二事を上申した。鹽引の増発、鼓鋳の議、雜税の徴収、隠田の調査、寺産への課税、牙行の調査、倉厫修理の停止、公署改修の中止、南京の馬に対する協済、崇文門の鋪税、京運の撥兌、板木の折価である。
  • ついで再び十二事を上申した。關税の増徴、公費の献納、生祠の売却、市税の調整、余剰の雑役の整理、水増し支給の調査、抵贖の増額、班軍の銀納化、吏胥の納班、河辺の灘蕩、京東の水田、殿工の冠帯である。帝はすべて認めて実行させた。
  • 詔により賦役全書を編ませた。自嚴は言った。全書の作成は一条鞭法の施行に始まり今から四十五年になる。一つの事柄でありながら地域によって多寡がある場合、その弊は混派である。役人が悪吏の言うがままに任せて割り振りを操作する場合、その弊は花派である。大いに戒めるべきだ、と。そこで八つの様式を条挙して献じ、帝はただちにこれを天下に頒布させた。
  • 給事中の汪始亨が屯田を横領して軍餉を損なう弊害を極論した。自嚴は、長年の慣行で実態の把握は困難だから、軍が耕すか民が耕すかを問わず一律に民田に準じて課税されたいと言い、帝はその議を是とした。
  • 先に忠賢が政を乱して辺餉がしばしば欠けたが、自嚴は期日どおりに支給した。また上疏して、最も財を費やすのは客餉に及ぶものはなく、諸鎮の年例は合計三百二十七萬でそのうち客餉が三分の一を占めるから大いに削減すべきであり、次いで撫賞・買い上げ・修築の諸費もいずれも節減せざるを得ないと言い、帝は褒めて容れた。
  • その冬、京師が兵禍に遭い、帝は国事に憂労して夜半にもたびたび旨を発した。自嚴は滞りなく奏答して安眠せず、頭も目も腫れ上がった。事はさいわい欠乏なく済んだ。
  • 翌年夏、六つの罪をあげて自らを弾劾し辞職を乞うたが、丁重な旨で慰留された。先に勤務年限を満たして太子少保を加えられ、遵化・永平の奪回の功を叙して重ねて太子太保・兵部尚書に進んだ。

増賦と失脚

  • 梁廷棟が天下の田賦の増加を請うたのを自嚴は止められず、そこで従来増した五百二十萬のほかにさらに百六十五萬余を増して、天下はますます疲弊した。
  • のち時務十事を陳べた。趣旨は民を利するところにあり、帝はすべて採用した。また兵餉が日々増えるのでたびたび洗い直しを請うたが、兵部および督撫はおおむね棚上げにした。さらに内地の無用の兵を整理することを乞い、帝はただちに厳しく命じたが、すべては実行できなかった。
  • 御史の余應桂が、自嚴は殿試の読巻で陳于泰を筆頭に推薦したが、于泰は輔臣周延儒の姻戚であると弾劾した。自嚴は病を理由に辞職を乞い、疏を四度上げたが許されなかった。
  • 当時、行取される県令については戸部が先にその銭穀を調査せよとの詔があった。華亭知縣の鄭友元はすでに中央に入って御史となっていたが、前任の青浦で金花銀二千九百を滞納していた。帝がこれを戸部に詰問すると、自嚴は友元がすでに十分の七を納めて太倉に貯えていると答えた。帝が倉庫の担当者に確認させたところ、そのような事実はなかった。帝は怒って自嚴を責め、自嚴が言葉を繕って弁解したので帝はいよいよ怒り、ついに自嚴を獄に下し、使者を遣わして友元を逮捕させた。御史の李若讜が疏で救おうとしたが容れられず、一か月余りして給事中の吳甘來が重ねて抗疏して救い、帝はようやく釈放した。
  • 八年(1635年)五月、四川の平賊の功を叙して官に復し引退した。さらに三年して没し、例のとおり弔いの品を賜った。