明史卷二百五十六 列傳第一百四十四 李長庚

出自と山東巡撫

  • 李長庚は字を酉卿といい、麻城の人。萬厯二十三年(1595年)の進士で、戸部主事に任じられた。江西の左布政使・右布政使を歴任し、赴任先ごとに清廉な操を励んだ。中央に入って順天府尹となり、右副都御史に改まって山東を巡撫した。
  • 飢饉対策に心を尽くし、民はこれによって蘇った。盗賊が武定の諸州県に広がると、討ってその首魁を捕らえた。

登萊の海運と督餉侍郎

  • 四十六年(1618年)、遼東で用兵し登萊の海運を行う議が起こった。長庚ははじめ不便だと言ったが、のちに次のように述べた。登州から鐵山の西北口を望んで羊頭凹に至り、中島・長行島を経て北信口に着き、さらに兔兒島を経て深井に至り葢州に達する。積み替え輸送百二十里で娘娘宫に着き、陸路で廣寧まで百八十里、遼陽まで百六十里。一石あたりの費用は一金である、と。部の議はこれを便として実行した。
  • 翌年二月、特に戸部侍郎一人を設けて右僉都御史を兼ねさせ遼餉を督させ天津に駐在させることとし、長庚をこれに充てた。長庚が上奏して実施したのは、淮船の建造、津路の開通、牛車の議、海道の調整、幫運の中止、銭法の議、按臣の設置、事例の開始、海防の強化の九事である。
  • 当時の議では年に米百八十萬石、豆九十萬石、草二千一百六十萬束、銀三百二十四萬兩を運ぶこととされた。長庚は金花銀の留保、改折の実施、税課の借用を請うて言った。臣が会計録を調べたところ、毎年の本色・折色を合わせて千四百六十一萬余。内府に入るものが六百餘萬、太倉に入るものは本色のほか折色四百餘萬。内府の六百萬のうち金花・籽粒のほかはみな絲綿・布帛・蠟茶・顔料の類で、年数がたてば皆朽ちてしまう。もし一年だけ改折すれば上には損がなく下には益がある。ほかに陝西の羊羢、江浙の織造もしばらく一年停めて軍国の急を救うべきである、と。
  • 帝は喜ばず、金花・籽粒はもともと祖宗の旧制で宮中への供給の正額と武官の月俸に充てるもので費用も少なくない、どうして借り留められようか、と言い、今年の天津・通州・江西・四川・廣西の上供税銀をすべて軍費に充てよと命じた。
  • そこで戸科給事中の官應震が上言した。会典の内庫の条を調べると、金花銀は国初には南京に送って武官の俸に充て、諸辺に急があればその中から支出した、正統元年にはじめて南京から内庫に送り先を改め、以後は武官の俸を除いてみな御用に充てた、とある。つまり金花銀は国初には常に辺境を助け、正統以後にはじめて御用に供したのである。会典の太倉庫の条には、嘉靖二十二年に、各地の京運銭糧は金花・籽粒を問わず内府に送るべきものはことごとく太倉庫に納めて各辺の入用に備えると議決した、とある。つまり世宗の朝には金花はすべて兵餉に充てられていた。陛下が御治世の初めに何故これを内廷に収められたのか分からない。今、各辺が支出して用いた先例を調べず、かえって正供の旧額だと言われるのは、どうしてこれほど食い違うのか。武官の月俸に至っては年に十餘萬に過ぎないのに、費用が少なくないと言えようか。しかも元の額は百萬で、陛下がはじめて二十萬を増したのである。年月がたって顛末をすっかり忘れておられる。臣の考えでは、今年借りるべきは言うまでもなく、以後も毎年借用してよい。将来の分が辺境を助けるべきは言うまでもなく、現に内帑にあるものもすべて太倉に返してよい。物料の改折については隆慶元年に一度行って部に納めて辺境を助け、六年にも南京の監局で行いこれも辺境を助けるためだった。これこそ祖宗の旧制である。陛下だけがこれをお聞きになっていないのか、と。帝はついに聴かなかった。
  • 当時は諸事が創始で職務が山積したが、長庚はことごとく処理した。

吏部尚書と王坤の一件

  • 天啟二年(1622年)、南京刑部尚書に遷り、そのまま戸部に移った。翌年、召されて戸部尚書を拝命したが着任せぬうちに喪で帰った。
  • 崇禎元年(1628年)、工部尚書に起用されたが、また喪で去った。久しくして閔洪學に代わって吏部尚書となった。
  • 六年(1633年)正月、修撰の陳于泰が上疏して時弊を論じたところ、宣府監視の中官王坤が力を尽くしてこれを罵り、首輔の周延儒にまで及んだ。長庚は同列を率いて上言した。陛下は古今を博覧されているが、内臣が輔臣を論難した例をご覧になったことがあるか。今より後、廷臣は手をこまねいて息をひそめるだろう。盛んな御代にあってよいことか。臣らの職務怠慢はただちに譴責・罷免をお下しくださって構わないが、内臣が軽々しく朝政を議する端緒を開き、禍が果てしなく及んで万世の口実となるのは忍びない、と。
  • 帝は不快に思い、翌日、平臺で召対した。当時、副都御史の王志道が王坤を弾劾した言葉はとりわけ辛辣であった。帝は責めて回答の奏を出させ、奏が上がるといよいよ怒り、面と向かって長く詰責したあげく、ついにその官籍を削った。
  • 王志道は漳浦の人。天啟の時に給事中となり三案を議して髙攀龍に論駁され、病を理由に帰郷した。その後、魏忠賢に取り入って左通政まで昇進し、論者はこれを軽んじた。ここに至って中官に逆らって罷免された。
  • 長庚は党派の後ろ盾を作らず、温體仁とはあまり折り合わなかった。郎中の王茂學を真定知府に推したが帝は許さず、あらためて順徳知府に推したところ帝は怒って欺瞞だと責め、あわせて冠帯監生に職を授けた件まで追及して回答の奏を出させた。奏が上がると庶民に落とされた。家に居ること十年で国が滅び、久しくして没した。