明史卷二百五十六 列傳第一百四十四 黄克纘

出自と巡撫時代

  • 黄克纘は字を紹夫といい、晉江の人。萬厯八年(1580年)の進士で、夀州知州に任じられた。中央に入って刑部員外郎となり、官を重ねて山東左布政使、そのまま右副都御史に遷って同地を巡撫した。
  • 礦税の停止を請い、税使の陳増・馬堂を弾劾した。そのほかの善政も著しかった。たびたび盗賊平定の功で加官され、兵部尚書にまで至った。
  • 四十年(1612年)、詔により旧官のまま南京機務に參贊することとなったが、御史の李若星・魏雲中に弾劾されて帰宅し命を待った。三年たってようやく任地に着いた。
  • 四十四年(1616年)冬、隆徳殿が火災に遭い、上疏して時政を論じた。言葉は極めて痛切だったが返答はなかった。召されて京營戎政を管し、刑部尚書に改まり、両朝の顧命をあらかじめ受けた。

移宮後の盗宝の獄と選侍の処遇

  • 李選侍が宮を移すとき、その内侍の王永福・姚進忠ら八人が乾清宮の珠宝を盗んだ罪で官に下された。克纘は二人を死刑、残りは減刑と擬したが、帝は従わず六人を死刑、残りを流刑と命じた。
  • 克纘は言った。姜昇・鄭穏山・劉尚理は一つも物を持ち出しておらず、劉遜は地に落ちた珠を拾って選侍に返しただけなのに、永福・進忠と同じく処刑されるのは軽重の釣り合いを失っている。まして選侍の箱の中の物が先朝からの下賜品でないとどうして分かろうか。今は宦官たちの罪が重く逃れる手立てもない。ただ帝が選侍を厚遇されれば獄の情勢は自然と緩むであろう、と。
  • そこで流言が四方に広まり、帝が先朝の妃嬪を冷遇しており克纘が真っ先にその言を容れた、と言われた。帝は喜ばず、克纘が一方の言のみを聴いたことを責め、前の旨のとおりにせよと命じた。
  • のち楊漣が移宮の顛末を陳べると、帝はただちに廷臣に宣諭して選侍が聖母を虐げた有様を詳しく述べ、「大小の臣は李の一党にばかり味方して朕の身を責めている」と言った。
  • 克纘は恐懼して上言した。礼は父母をともに尊ぶもので、母を思う誠から出た行いが父の過ちを世に明らかにする方へ及ぶことがある。必ず委曲を尽くして跡形なく丸くおさめてこそ大孝である。李氏を党庇して聖躬を責めるなど、臣は万死しても敢えていたしません、と。

焦源溥との論争

  • 御史の焦源溥は克纘の持論の誤りを力説して駁し、最後に、群小の輩が百萬の資財を持ち出し選侍を安んずるのを名目にして妄りに罪を逃れようとしており、克纘はその術中に落ちながら気づいていない、と論じた。
  • 克纘は反論の奏を上げて辞職を乞い、おおよそ次のように言った。源溥は、神宗の時に元子の側に立った者が忠臣で福藩の側に立った者は忠臣でない、と言う。臣もこれを広げて言おう。神宗はすでに先帝を保護して大位を授けられたのだから、神宗のために貴妃を全うしその愛子を富貴にしたのもまた大きな忠である。また源溥は、先帝の時に二后の側に立った者が忠臣で選侍の側に立った者は忠臣でない、と言う。これも広げて言えば、聖母はすでに名分と位が正されたのだから、内助の令徳を輝かせ宮中の争いを空しく語り伝えないことこそ大きな忠である。もし源溥の言うとおりなら、先帝がその初めを正せず聖母がその終わりを正せなかった場合にはじめてこの獄を議せる、ということになってしまう。
  • 疏が入ると帝は激怒し、軽率で憚りがなく忠孝をわきまえぬと責めた。克纘は恐懼して罪を認め、大學士の劉一燝らも代わって取りなしたので、事はやんだ。
  • まもなく給事中の董承業・孫杰・毛士龍、御史の潘雲翼・楊新期、南京御史の王允成が並んで克纘の是非の食い違いを弾劾した。克纘は承服せず、かつて李三才を推挙しなかったので彼らに憎まれるのだと言った。源溥はさらに、克纘は三才を口実にして言官を陥れようとしていると弾劾した。克纘は反論の奏を上げ再び辞職を乞うたが、帝は取り上げなかった。

紅丸の議と晩年

  • 天啟元年(1621年)冬、太子太保を加えられ、まもなく再び兵部尚書として戎政を協理した。
  • 廷臣が紅丸の件を議したとき、克纘は薬を進めた顛末を述べて方從哲を弁護した。給事中の薛文周は、克纘が人倫を滅ぼし私交に馴れて大義に暗いと非難した。克纘は憤り、春秋が隠公・閔公の弑逆を書かないことを引いて文周を強く論難し、あわせて選侍が聖母を殴った事実はないと明言した。給事中の沈惟炳が文周に加勢して重ねて克纘を弾劾した。
  • これより先、帝は百官に宣諭して、選侍が聖母を殴って崩御させたと明言していた。ところが惟炳の疏が上がると次の旨が下った。選侍にはかねて逆らう振る舞いがあり、朕が一時に伝えた諭も過激でなかったとは言えぬ。皇考を追念すればどうして無関心でいられようか、と。
  • そこで外部の議論は紛糾し、これまでの上諭はことごとく王安が偽って作らせたものだと言われ、選侍を安んずることを請う者はますますこれを口実に使った。この時すでに王安は死んで魏忠賢が権柄を握っていたので、前後の諭旨がこれほど食い違ったのである。
  • 克纘は中央・地方を歴任して清廉剛毅で信念を持ち、三案を争う者とは議論を異にした。攻撃が次々と起こり、これ以後、群小が東林を排斥して三朝要典を編むにあたっては、おおむね克纘を第一の功労者に推した。当時は東林が盛んだったので克纘は病を理由に退き、詔により太子太傅を加えられ伝馬に乗って帰郷した。
  • 四年(1624年)十二月、魏忠賢が東林をことごとく追い出すと、克纘を召して工部尚書とした。数か月執務してまた病を理由に帰郷した。三殿が完成すると太子太師を加えられた。
  • 崇禎元年(1628年)、南京吏部尚書に起用されたが、弾劾する者があったので就任せず、家で没した。