明史卷二百五十四 列傳第一百四十二 張瑋

武進の人、字は席之。幼くして父を失い、糠や粃で飢えをしのぐ貧窮のうちに薛敷教に見出され、東林書院で講学して孫慎行に学び、慎独と研幾を宗とした。広東提學僉事のとき、奢侈な供応と珍宝の贈答をことごとく退け、魏忠賢の生祠の上梁文を求められるとその日のうちに官を退いて帰郷した。崇禎年間に再び用いられ、應天府丞として大旱に際し米の移出禁止の解除と漕糧の折銀を建議して救荒にあたった。左副都御史となってからは、貪なる王志舉を弾劾し廉なる成勇の召還を請う上疏で世の喝采を浴びた。まもなく病で辞して死に、福王の時に左都御史を贈られ清惠と諡された。附伝の金光辰は剛直な言官で、内臣派遣に反対して帝の怒りを買った。

年表(6件)

出自と学問

  • 張瑋は字を席之といい、武進の人。幼くして父を失い貧しく、糠や粃を取って飢えをしのぎ、人から一飯を受けることさえ軽々しくしなかった。同郷の薛敷教に見出され、東林書院で講学し、孫慎行を師とした。その学は慎独と研幾を宗とした。
  • 萬厯四十年(1612年)、應天の郷試に第一で合格し、七年を越えて(四十七年、1619年)進士となった。

地方官としての清廉

  • 戸部主事に任じられ、兵部職方に移り、郎中を歴任して、広東提學僉事として出た。粤(広東)の風俗は奢侈華麗で、提学が着任すると邸宅・調度・輿馬・食料の供応は他省の倍にあたり、象牙・犀角・文石・名花・珠貝が山と積まれてきらびやかだったが、瑋はことごとく退けて見向きもしなかった。
  • 大吏が魏忠賢の生祠を建て、上梁文を瑋に乞うと、瑋はその日のうちに職を退いて去った。瑋は清廉なので帰郷しても布の袍と草履のままで、家で門人に教授した。
  • 莊烈帝が即位すると江西參議に起用され、福建・山東の副使を歴任した。大學士の呉宗達が、瑋は進むに難く退くに易い(節操ある)人物だと吏部に言ったので、召されて尚寳卿となり、太僕少卿に進んだ。事に連座して南京大理丞に移され、病と称して去った。

應天府丞としての救荒策

  • 久しくして應天府丞に起用された。この年は四方が大旱で、瑋は軍の食糧が危ういとして、江西・湖廣が米の移出を止めるのを禁じ、應天・常州・鎮江・淮安・揚州の五郡には漕糧を銀に折って納めさせ、その銀で現地の米を買わせるよう奏請した。そうすれば小民は徴税の苦しみを免れ、太倉も一粒の欠損も生じない。他の十庫が収める銅・錫・顔料・皮革・布のうち州縣の土産でないものはすべて折色(銀納)で送らせ、さらに民解(民間による輸送)をすべて官解に改めて、民を湯火から救うべきだと言った。担当官庁は多くを議して実行した。
  • 南京光禄卿に遷り、召し入れられて右僉都御史となり、左副都御史に遷った。

台班を風励する上疏

  • 当時、劉宗周と金光辰がともに憲紀(都察院)を統べていた。瑋はそこで台班(御史の綱紀)を励ます上疏を奉って言った。過去を懲らすのは将来を戒めるためである。いま極端に貪なる者は原任の蘇松巡按御史・王志舉、極端に廉なる者は原任の南京試御史・成勇である。勇とは面識もなかったが、郷里にいたとき勇が逮捕されると聞き、泣いて見送る士民が万を数え、百里に及んでもやまなかった。のちに南都に入ってはじめて知ったが、勇は台にあって一つの言葉も濫りに聴かず、一つの罰金も軽々しく贖わせず、属吏から一菜一果も受けず、民の害となる豪紳・悍吏には手加減せず、婉曲に導いて民を孝悌によって教化した。臣が南中を離れるとき、人々は車の轅にすがって「成御史をお借りして我ら南人に恵みを」と願った。以前に厳しい譴責を受けているとはいえ、諸御史を励ますために召すべきである、と。
  • 疏が上がると一時の人々は快哉を叫んだ。詔が下って志舉は法司に付されて逮捕・処断され、成勇は叙用された。
  • 瑋はまもなく病を理由に辞して帰り、ほどなく死んだ。福王の時、左都御史を贈られ、清惠と諡された。

金光辰(附伝)――出自と御史時代

  • 金光辰は字を居垣といい、全椒の人。崇禎元年(1628年)の進士。行人に任じられ、御史に抜擢された。
  • 西城を巡視した際、内使の周二が人を殺したので、司禮監に牒を送って捕らえさせた。その者はちょうど御前に伺候しており、叩頭して哀れみを乞うたが、帝は「これは国家の法である。朕といえども私することはできぬ」と言い、ついに罪に服させた。
  • 河南の巡按に出て、条奏は三百余章に達し、権勢をはばからず弾劾した。

金光辰――内臣派遣に反対して帝の怒りを買う

  • 九年(1636年)、朝廷に還った。京師が戒厳となると光辰は東直門の守りを分担し、兵部尚書の張鳳翼について「三つの解しがたい点と一つの大いに憂うべき点」があると弾劾したが、帝は鳳翼がちょうど軍中にあるとして、その奏を握りつぶした。
  • 当時、帝は長く内臣の派遣をやめていたが、辺境の警報に諸臣が総じて萎縮して任に堪えないため、やはり中官の盧維寧らを分遣して通州・天津・臨清・徳州などの兵馬・糧餉を総監させ、しかもそれを言われるのをひどく嫌っていた。光辰が上疏して派遣の中止を請うと、帝は怒って平台に召し出した。
  • 折しも風雨が急に来て、侍臣は雨中に立ち、袖で雨だれを遮るほどだった。しばらくして帝は光辰を召して責め、光辰は「皇上は文武の諸臣が実心をもって事に当たらぬとして内臣に委任なさいますが、臣が愚考しますに、内臣に任せれば諸臣はますます責任を投げ出して任に堪えなくなります」と答えた。帝は激怒し、声色ともに厳しく、光辰を重く罰しようとしたところ、烈しい雷が御座を直に震わせ、風雨の音が大いに起こった。光辰はそこで「臣はさきに河南にあって、皇上が内臣を撤せられたのを見て喜び……」と言った。言い終わらぬうちに帝は考え込み、「そなたはもう言うな」と言った。しかし帝の意もやや解けたので、人々は光辰には天の幸いがあったと言った。
  • 当時、張元佐が兵部右侍郎として昌平を守りに出たが、同時に天壽山を提督する内臣は即日赴任した。帝は閣臣を顧みて「内臣は即日赴任するのに、侍臣は三日経っても出発しない。朕が内臣を用いるのは過ちであろうか」と言った。翌日、詔があって光辰は三級を削られ地方に転出させられた。

金光辰――召対と晩年

  • 久しくして浙江按察司照磨から召されて大理寺正となり、太僕丞に進んだ。
  • 十三年(1640年)五月、再び諸大臣とともに平台に召され、辺境の防衛・救荒・安民の策を諮問された。光辰は席次が最も後で、そのときすでに夜だったが、光辰はひとり燭影の中で数百言を淀みなく述べ、帝は襟を正して聴いた。翌日、諸臣にそれぞれ疏を作って提出するよう諭した。
  • ほどなく尚寳丞に移り、練総の廃止、僉報(人夫徴発)の私的な割り当ての改廃など数事を陳べ、奏は聞き置かれた。光禄少卿・左通政を歴任した。
  • 十五年(1642年)五月、再び諸臣とともに徳政殿に召され、賊の形勢をつぶさに陳べた。帝は喜んで左僉都御史に抜擢した。
  • ほどなく劉宗周を救ったため、やはり三級を削られて地方に転出させられた。この件は宗周の伝に載る。
  • 翌年、父の喪に遭った。福王の時に旧官に起用されたが赴任せず、國變のあと郷里に居ること二十余年で死んだ。

史論

  • 賛にいう。明は神宗より後、士大夫は門戸(党派)を峻厳にし意気を重んじた。そのうち賢者は名節と検束を篤くはげみ、官にあっては執って争うところがあり、清議はこぞって彼らに帰した。とはいえその才識は遠くまで及ばず、見聞き慣れたものに囚われて時代の風潮を出られなかったが、それでもやはり一時の良臣である。時運の甚だしい困難に遭い、過失を取り繕うにも手が回らなかったのだから、どうして頽勢を挽回し大事を成し遂げる業を責められようか。