明史卷二百五十四 列傳第一百四十二 鄭三俊
池州建徳の人、字は用章。萬厯二十六年の進士で、地方官・提學を歴任したのち天啟の初めに光禄少卿・太常となり、魏忠賢と客氏が后妃を帝から遠ざけるのを「妖冶なる者を御前に列せしむるなかれ」と諫めて忠賢の怒りを買った。楊漣の弾劾に同調して失脚したが、崇禎年間に南京戸部尚書兼掌吏部として起用され、京察で閹黨の残党を一掃し、南京の積年の糧の弊害を除いた。關稅の増徴には民を苦しめるとして減額を請い、貪吏を次々に弾劾した。刑部尚書としては恤刑の諸策を建議して容れられたが、侯恂の獄で軽い擬律を重ねたため帝の激怒を買って下獄し、贖罪金で許された。のち吏部尚書として李邦華・劉宗周・黄道周・史可法らを推薦し、廃斥された賢士を再び用いたが、呉昌時を文選郎中に引いたことで言官の集中攻撃を受け、致仕して帰郷、國變の後に十余年を経て死んだ。
年表(7件)
- 萬厯二十六年1598年進士に及第し、元氏知縣に任じられる
- 天啟四年1624年左副都御史に遷り戸部右侍郎となり、楊漣に同調して魏忠賢を極論する
- 1625年張訥に鄒元標らと同流だと弾劾され、職を奪われて閒住となる
- 崇禎元年1628年南京戸部尚書兼掌吏部として起用され、京察で忠賢の残党を一掃する
- 1629年皇太子冊立を賀して入朝し、上下の乖離を憂えて人心を収めるよう諫める
- 崇禎八年1635年再び京察を主管して七十八人を罷免し、のち刑部尚書となる
- 崇禎十五年1642年召されて李日宣に代わり吏部尚書となる
出自と天啟年間の直言
- 鄭三俊は字を用章といい、池州建徳の人。萬厯二十六年(1598年)の進士。元氏知縣に任じられ、累進して南京禮部郎中、歸徳知府、福建提學副使となった。郷里に七年居たのち旧官に起用され、浙江の糧儲を監督した。
- 天啟の初め、召されて光禄少卿となり、太常に改められた。着任前に中官の侵奪・冒領についての六箇条を陳べた。
- 当時、魏忠賢と客氏が后妃を帝から遠ざけ、后妃はめったに帝に会えなかった。三俊の上疏に「三宮を篤く厚くし、妖冶なる者を御前に列せしめず」という語があり、忠賢は二人の宦官を内閣に遣わして「妖冶」の語を抜き出し、重く罪を問わせようとした。閣臣は力争したが、旨を擬するにあたっては先朝の故事を口実にした。
- 三俊は再び上疏して言った。近ごろの糜爛・荼毒は中璫(宦官)に過ぎるものがないのに、閣臣はみな故事だと言う。古人は「宦官の名が世に聞こえるのは国の福ではない」と言った。いま名の聞こえた者が現にあり、内外に手を結んでいる。閣臣が抑え込むことを頼みとしているのに、閣臣はすぐ阿諛して自らその職を放棄する。寒心すべきことだ、と。忠賢はいよいよ怒り、内閣を非難する語があるとして、疏を留めて下さなかった。
- 左僉都御史に抜擢され、上疏して兵と食糧の大計を陳べ、内外の諸官庁に諫言した。吏部郎中の徐大相が言論のために左遷されると、上疏して救った。
天啟四年以後の失脚
- 天啟四年(1624年)正月、左副都御史に遷り、戸部右侍郎となった。楊漣が忠賢を弾劾すると、三俊もまた上疏して極論した。まもなく倉場の事を署理したが、太倉には一年分の蓄えもなく、三俊は備蓄を満たすための数箇条を奏して実行させた。
- 忠賢が漣らをことごとく追放すると、三俊も病と称して去った。翌年(1625年)、忠賢の一党の張訥が天下の書院の破却を請い、三俊は鄒元標・馮從吾・孫慎行・余懋衡と汚れを合わせ流れを同じくする者だと弾劾したので、職を奪われて閒住となった。
崇禎年間の南京戸部尚書
- 崇禎元年(1628年)、南京戸部尚書として起用され、あわせて吏部の事を掌った。南京の官僚には忠賢の残党が多く、この年の京察で三俊はこれを一掃した。
- 京師が兵禍に遭い、大臣が大いに譴責を受けた。翌年(1629年)春、三俊は皇太子の冊立を賀するために入朝し、力を尽くして言った。皇上のご心労はいささか度を過ぎ、人情は鬱結して伸びず、百官はみな過ちの取り繕いに追われ、上下は乖き離れている。密かな憂いとするに足る。願わくは聖躬を保って天下を保ち、人心を収めて封疆を収められよ、と。帝は褒めて容れた。
- 南京の糧の年額は八十二万七千余であったが、未納の累積は数百万に達し、しかも兵部は増兵をやめなかった。三俊が着任した当初、倉庫には一月分の兵糧もなかった。三俊は積年の弊害を強く取り除き、とくに怠慢な有司数人を糾弾し、たびたび兵部と虚偽の員数・冒領を争ったので、久しくして兵士は腹を満たせるようになった。
關稅の議
- 萬厯の頃、税使が四方に出て、蕪湖にはじめて関所が置かれ、年に税六、七万を徴収していたが、泰昌の頃にはすでに停止していた。このとき国庫はいよいよ窮迫し、科臣の解學龍が天下の関税増徴を請い、南京宣課司でも二万を増やすことになった。
- 三俊は民を苦しめるとして、その半分に減らし、残りの半分は蕪湖の坐賈(定住商人)から徴すよう請うた。戸部はそこで蕪湖に三万を割り当て、改めて関所を設けて商人から徴収した。三俊は徴収をやめ、工部の分司に併せて船数を数えて課税し、貨物には課税しないよう請うたが、いずれも聞き入れられず、そのまま恒久の制となった。
- 蕪湖・淮安・杭州の三関はいずれも南京戸部の管轄で、派遣された司官の李友蘭・霍化鵬・任俶はみな貪欲だったので、三俊はことごとく弾劾して罷免させた。
刑部尚書としての恤刑
- 在任七年で吏部に移った。八年(1635年)正月、再び京察を主管し、七十八人を斥け罷免して、当時その公正さに服した。ついで官の評定、請託の遮断、差委(任務の割り当て)の慎重化の三事を上議し、帝はみな採用した。
- 流寇が江北を大いに乱し南都が動揺すると、三俊はしばしば防禦策を陳べた。禮部侍郎の陳子壯が下獄されると上疏して救った。
- 考績のため入京し、そのまま留められて刑部尚書となり、太子少保を加えられた。
- 帝が陰陽の調和を失したとして司禮の中官に囚人の審理を命じ、流刑・徒刑以下はみな減等された。三俊は、文武の諸臣で過失に連座して長く拘禁されている者が多いとして、外に出して裁きを待たせるよう請い、密告と連座の弊害を論じて、内外の諸臣に惻隠の実政を行わせるよう乞うた。すなわち、内では五城(京師の巡城御史)の訊問は重罪でなければ法司に送る必要はなく、外では撫按の追及は真犯人でなければすべて京師に送る必要はなく、刑曹の決断は十日を期限とする、と。帝はみな従った。
- 代州知州の郭正中が天変を理由に寒審(冬季の審理)の典礼を挙げるよう請い、帝は故事を調べさせた。三俊は歴朝の寳訓を調べて祖宗が冬に囚人を審理した数件を得て、備さに列挙して上奏したが、握りつぶされて行われなかった。
- 前尚書の馮英が事に連座して流配となり、その母は九十一歳だった。三俊は釈放して侍養させるよう乞うたが、許されなかった。
侯恂の獄と譴責
- はじめ戸部尚書の侯恂が屯豆の一件に連座して下獄し、帝は重く罰しようとしたが、三俊がたびたび審理して上申しても旨にかなわなかった。讒言する者は、恂も三俊もともに東林であり、法を曲げて放免しようとしていると言った。
- 工部の銭局に盗人が垣に穴を開けた事件があり、担当者の罪を糺すよう命じられたが、三俊はやはり軽い刑を擬した。帝は激怒し、その官を剥奪して官に下した。
- 應天府丞の徐石麒がたまたま在京しており、上疏して力を尽くして救ったが、旨に忤らって厳しく責められた。帝が経筵に臨んだとき、講官の黄景昉が三俊は至って清廉だと称し、また黄道周とそれぞれ上疏して救ったが、帝は納れず、三俊の欺罔を厳しく責めた。ただ私的な不正利得はないとして、出獄させて審問を待たせた。宣大總督の盧象昇もまた救い、大學士の孔貞運らも言を添えたので、贖罪金を納めることが許された。
吏部尚書としての人事と致仕
- 十五年(1642年)正月、召されて旧官に復した。折しも吏部尚書の李日宣が罪を得たので、ただちに三俊にこれを代えさせた。
- 当時ちょうど考選にあたっており、地方官の多くが城壁の修繕や開墾を口実に、俸を減じてまで行取(中央への抜擢)を求めていた。都御史の劉宗周が上疏してこれを論じたので、彼らは周延儒に取り入り、兵部尚書の張國維に「兵事に通じている」と推薦させた。帝はすぐに召見して親しく抜擢しようとしたが、三俊は「考選は部院の事で、天子でさえ専断はなさらぬのに、まして枢部(兵部)においてをや。まず考定させたうえで聖裁を仰ぐべきです」と言った。帝は不快となり、三俊を召して責めたが、答えて屈しなかった。宗周もまた、三俊は部院の考課を待ってその優劣・純疵を等級づけ、恭しく欽定を請おうとしているのであり、ただ奏対だけで人を取ったのでは真の人品は得られない、と言った。帝は従わず、これによって僥倖で登用される者が多くなった。
- 帝が詔を下して賢者を求めると、三俊は李邦華・劉宗周を自分の後任に挙げ、あわせて黄道周・史可法・馮元颺・陳士竒の四人を推薦した。姜採・熊開元が言論により下獄したとき、および宗周が厳しい譴責を受けたとき、三俊はいずれも懇ろに救った。前後して職に堪えない司官数人を罷免するよう奏し、銓曹(吏部)はみな慎み深くなった。高官に欠員が多く、三俊はしばしば推薦して、廃斥されていた賢士の多くが再び用いられた。刑部尚書の徐石麒が罪を得たときは、同僚を率いて連名で留任を乞うた。
- 三俊の人となりは端厳・清亮で、正色して朝廷に立った。ただ呉昌時を属官に引いたことだけは、世の非難を受けた。
- 当時、文選郎中が欠員で、儀制郎中の呉昌時がこれを得ようとした。首輔の周延儒が強く帝に推薦し、あわせて三俊にも依頼し、他の輔臣や言官もその賢を称える者が多かったので、三俊は調任・補職を請うた。帝は特に召して問うたが、三俊はまた衆議に従って答え、帝はうなずいて、翌日には命が下った。他部から選郎に調任するのは、これまで例のないことだった。
- 帝は言官が職を果たさないのを憎み、多くを汰ろうとして、かつてそれを三俊に語った。三俊は昌時と謀って給事四人・御史六人を地方に出した。給事・御史は大いに騒ぎ、昌時が制度を乱して権を弄ぶと言って連名で激しく攻撃し、あわせて三俊も誹謗した。三俊は懇ろに致仕を乞い、詔により駅伝の車に乗って帰ることを許された。
- 國變の後、郷里に居ること十余年で死んだ。