明史卷二百五十四 列傳第一百四十二 曹珖

出自と戸部・兵部の職

  • 曹珖は字を用韋といい、益都の人。萬厯二十九年(1601年)の進士。戸部主事に任じられ、皇城四門の倉を監督した。衛軍が宦官たちから金を借り、月々の給与で返済していたが、軍には三年も給与が支給されず、支給の時期になると宦官たちが証文を抱えてやって来た。珖は利息を減らすよう命じ、宦官たちが大いに騒ぐと、珖は「では私的な証文もあわせて奏聞し、主上の処分を仰ごう」と言った。宦官たちは命に従うことを願い出て、軍の困窮は少し和らいだ。
  • 喪のため職を去り、復して兵部武選主事に補せられ、職方郎中を歴任した。有力な宦官の縁故の者が大帥の地位を求めたが、珖は認めなかった。東廠太監の盧受が職掌を申し立てる上疏をすると、珖もまた受に命令を下して部下の兵卒を取り締まらせ、良民を陥れさせぬよう請うた。
  • やや進んで河東參政となったが、病と称して帰郷した。

光宗の急死を論ずる

  • 久しくして南京太常少卿に起用された。光宗が急死すると、急ぎ上疏して言った。先帝は春秋に富む盛りでありながら群臣を捨てて逝かれた。奸党の陰謀により薬を雑ぜ用いたためであることは道行く者も皆知っている。天下の弑逆には毒であって鴆ではなく、殺害であって刃ではないものがある。これは先年の梃撃の一件と同じ奸悪である。輔臣に明詔を下して奸状を徹底的に究め、先帝の讐を雪ぐよう乞う、と。奏は聞き置かれた。
  • 天啟の初め、職方時代の辺功を叙されて光禄卿を加えられ、太常卿・大理卿に進んだ。

閹黨による失脚と崇禎年間の復官

  • 魏忠賢が政を乱して大獄が次々に起こると、珖は休暇を願って帰郷した。まもなく給事中の潘士聞に弾劾されて職を落とされ閒住。御史の盧承欽が東林を激しく攻撃し、珖を「邪盟の主に馴れ親しむ者」と誹謗したので、ついに官爵を削り奪われた。
  • 崇禎元年(1628年)、戸部右侍郎として起用され銭法(貨幣行政)を監督し、まもなく左侍郎に遷り、三年(1630年)に工部尚書を拝した。珖ははじめ名を珍といったが、仁宗の諱を避けて改名した。
  • 五年(1632年)、陵の工事が完成して太子少保を加えられた。桂王の府第を再建する議のとき、江西・河南・山東・山西の田賦を十二万余、浙江の未納の織造銀を十余万加増する話が出て、巡撫の陸完學はこれを正額に編入するよう請うたが、珖はいずれも認めなかった。

張彛憲との対立と致仕

  • 中官の張彛憲が戸部・工部両部の事を総理し、部の堂上に座席を設けようと議したが、珖は認めなかった。右侍郎の高𢎞圖が着任すると、彛憲は共に公座を設けようとした。珖は𢎞圖と申し合わせ、彛憲が来ると二人とも「事は済みました」と言って座を撤して去り、彛憲は不満を抱いた。
  • 主事の金鉉・馮元颺が相次いで上疏して彛憲を弾劾すると、彛憲は珖の差し金だと疑い、日々その隙をあら探しした。折しも山永巡撫の劉宇烈が材料代として銀一万五千両、鉛五万斤を請求した。工部には銀を支給する例がなく、鉛も半分しか渡さなかったので、宇烈は怒って鉛はみな粗悪だと奏した。彛憲は粗い鉛を取って差し出し「庫の鉛はみなこの通りです」と言い、珖を罪に落とそうとした。厳しい旨により庫の鉛をすべて鎔かすこととなり、中毒死した司官が三人出て、内外の官も多く罪を得た。彛憲はそこで巡視の科道官である許國榮ら十一人を糾弾した。珖は上疏して救おうとしたが旨に忤らって詰責され、彛憲はさらに閘の工事で不正な出費があったと指摘して珖を苛んだ。
  • 珖は再三、辞職(骸骨を乞う)を願い出て、五月に許された。その後たびたび推薦されても出仕せず、郷里に居ること十四年で死んだ。