明史卷二百五十四 列傳第一百四十二 孫居相

出自と南京御史時代

  • 孫居相は字を伯輔といい、沁水の人。萬厯二十年(1592年)の進士。恩縣知縣に任じられ、召されて南京御史となった。気概があり、はばからずものを言った。
  • かつて時政について上疏し、いま内は宰執から外は郡守・縣令に至るまで、一人としてその職責を尽くす者がなく、政事は日に日に廃れ、統治の道は日に日に乖き、天変と人の怨みが重なって、やがて瓦解土崩に至るだろう、たとえ珠玉金宝が地を覆い天に満ちようと、危亡をどう救えようか、と述べた。帝は顧みなかった。
  • 誠意伯の劉世延はたびたび重罪を犯して庶人に落とされ、本籍地に禁錮されたのに詔に従わず、長く南京に居座っていよいよ不法を働き、星変を口実に兵を率いて闕下へ赴くなどと放言した。居相は上疏してその奸悪を暴き、あわせて南京の勲臣の子弟の横暴ぶりを挙げた。旨を得て世延は官に下され、安遠・東寧・忻城ら諸侯伯の子弟もことごとく取り調べられ、乱暴狼藉はおさまった。
  • 税使の楊榮が雲南で変を起こさせた件、太和山を守る中官の黄勲が道士をそそのかして知府を殴辱させた件、いずれも居相はその罪を極論した。
  • 当時、中央・地方ともに欠員が多く、居相は七つの職務を兼摂し、諸道の印事も署理したが、みな滞りなく処理した。
  • 大學士の沈一貫がたびたび人の非難を受けると、居相はその奸貪と党派づくりを強く責め、一貫は職を去った。居相もまた一年分の俸禄を奪われた。

科場事件と朋黨との抗争

  • 相次いで内外の喪(父母の喪)に遭い、喪が明けて復職。漕運の巡察に出て、帰ってから湯賓尹・韓敬の科場(試験不正)の件を暴いた。朝議は官籍剥奪が相当としたが、その一党が庇い立てし、旨により法司の再審に付された。居相はさらに敬が賄賂を通じた状を暴き、敬はついに立ち行かなくなった。
  • 旧例では御史の年例による地方転出は、吏部と都察院が協議して決める。王時熙・魏雲中の転出のとき、都御史の孫瑋は関与を知らされなかったので、居相は再び上疏して尚書の趙煥を弾劾し、煥は引退した。鄭繼之が煥に代わってもまた私意で宋槃・潘之祥を地方に出したので、居相は法に拠って力争した。
  • 吏部侍郎の方從哲が中旨で起用され、中書の張光房ら五人が持論を曲げなかったために時の権貴に退けられ科道の選から外されたときも、居相は連名で上疏して論じた。
  • この頃は朋黨の勢いが定まり、言路の心得違いの者は総じて吏部に付いて異己を排除し、その勢いは甚だしかった。居相は身を挺して抗い、少しも気勢を挫かれなかった。そこで過庭訓・唐世濟・李徴儀・劉光復・趙興邦・周永春・姚宗文・呉亮嗣・汪有功・王萬祚らが群がって難儀をしかけたが、居相は次々に上疏して支え、彼らはついに害をなせなかった。
  • 萬厯四十五年(1617年)に至り、やはり年例によって江西參政に出されたが、病と称して赴任しなかった。

天啟・崇禎年間と最期

  • 天啟改元(1621年)、光禄少卿に起用され太僕に改められ、右僉都御史に抜擢されて陝西を巡撫した。四年(1624年)春、召されて兵部右侍郎を拝したが、その冬に魏忠賢が権柄を盗むと、また病と称して帰郷した。
  • まもなく給事中の陳序が、居相は趙南星の門から出て楊漣と親しいと述べ、序の同僚の虞廷陛もまた居相が李三才を強く推薦し、遠く史記事と結んでいると弾劾したので、ついに官爵を削り奪われた。
  • 崇禎元年(1628年)、戸部右侍郎として起用され、もっぱら貨幣鋳造を監督した。まもなく吏部に移って左侍郎に進み、戸部尚書として倉場を総督した。漕運の転送に民間の船を雇うことが多く民は甚だ疲弊していたが、居相の建言で救われた。
  • 高平知縣の喬淳が貪虐で、給事中の楊時化に弾劾され、贓(不正利得)二万余に当たるとされた。淳は京師に有力な後ろ盾があり、法司での再審を求め、あわせて時化が請託して恨みを買ったのだと訴えた。時化はちょうど喪に服して郷里におり、居相に書を通じた。居相の返書に「国事は日に非にして邪気はいよいよ悪し」という語があり、これが偵察の者に押さえられて朝廷に報告された。帝は激怒して居相を獄に下し、辺境へ流配とした。
  • 崇禎七年(1634年)、流配先で死んだ。
  • 弟の孫鼎相は吏部郎中・副都御史を歴任し、湖廣を巡撫して、やはり当時に名があった。