篇首の立伝者一覧
- 喬允升(易應昌ら附)
- 曹于汴
- 孫居相(弟の鼎相附)
- 曹珖
- 陳于廷
- 鄭三俊
- 李日宣
- 張瑋(金光辰附)
出自と初任
- 喬允升は字を吉甫といい、洛陽の人。萬厯二十年(1592年)の進士となり、太谷知縣に任じられた。
- 治績が高い評価を得て召され、御史となる。宣府・大同・山西・畿輔を巡按して、いずれの任地でも気骨ある働きぶりで知られた。
京官の考課をめぐる争い
- 萬厯三十九年(1611年)の京官の大計(考課)で、允升は河南道の協理として悪質な者の排除に力を尽くした。主事の秦聚奎、給事中の朱一桂がそろって処分対象者のために冤罪を訴え、考課の上奏がまだ裁可されないうちに、允升は帝の意向が揺らぐことを懸念して三度上疏し事の次第を弁別、あわせて吏部侍郎の蕭雲舉が考課の補佐にあたって私情を働かせたと弾劾した。こうしてようやく考課は完了し、雲舉も職を退いた。
- ほどなく順天府丞に移り、さらに府尹に進んだ。齊・楚・浙の三黨が実権を握ると、病と称して郷里に帰った。
天啟年間の失脚
- 天啟の初め、起用されて刑部の左侍郎・右侍郎を歴任し、三年(1623年)に尚書に進んだ。
- 魏忠賢が吏部尚書の趙南星を追放したのち、朝議は允升を後任に推した。忠賢は允升を南星の一派とみなし、推挙を主導した者ともども退けたため、允升は再び病と称して帰郷した。
- その後、給事中の薛國觀が允升を邪黨の首謀者と弾劾し、詔により職を解かれて閒住(無役のまま自宅待機)となった。
崇禎初年の刑部尚書と錢千秋の獄
- 崇禎の初め、召されて旧官(刑部尚書)に復した。当時は訴訟・獄事がいよいよ繁く、帝は何につけ重罰を用いたが、允升は法を執って屈せず、多くの冤罪を晴らした。
- これに先立ち、錢謙益が浙江の郷試の試験官を務めた際、金保元・徐時敏という悪辣な者が偽の「關節」(合図の隠語)をこしらえて受験生の錢千秋に授けた。千秋はもともと文才があって合格したが、保元・時敏に欺かれたと気づいて彼らと争いになり、事件が京師に伝わって部科の磨勘(答案の再点検)担当者に暴かれた。謙益は大いに驚き、問い質して二人の所業と知り、上疏して弾劾。千秋ともども官に下されて罪を問われ、当初は流配(戍)と定まった。二人の悪党は獄中で病死し、千秋は恩赦で釈放されて帰り、事件からすでに七年が経っていた。
- 温體仁は枚卜(大臣の推挙)に加われなかったことから、この件を蒸し返した。詔により千秋は再び逮捕され再審となった。帝は朝臣が党を組んでいると深く疑い、怒りを蓄えて待ち構え、體仁もまた密かに傍らからうかがっていたので、朝臣たちは互いに顔を見合わせて息をひそめた。
- 允升は都御史の曹于汴、大理卿の康新民らと会同して再度取り調べたが、千秋は拷問を受けても供述を変えなかった。允升らはありのままを奏上したが、帝は不快として再調査を命じた。體仁は事の真相が明らかになれば自分が咎めを受けると恐れ、再び上疏して法官の「六つの欺き」を弾劾し、獄の供述はすべて当時の試験官の手から出たものだと言った。允升は憤って辞職を求め、帝は慰留したものの、結局は體仁の言うとおりになり、試験官(錢謙益)は職を奪われて閒住、千秋は首枷をはめられて死んだ。
囚人脱走事件と流配
- 崇禎二年(1629年)冬、大清の兵が都城に迫った際、獄囚の劉仲金ら百七十人が枷を破って抜け出し、城を越えようとして捕らえられた。帝は激怒し、允升と左侍郎の胡世賞、提牢主事の敖繼榮を獄に下し、死罪に処そうとした。中書の沈自植はその機に乗じて允升の別の罪を並べ立てて弾劾し、その章もあわせて審問に付された。
- 副都御史で都察院を掌る易應昌は、允升らに死罪はないとして再三強く奏したため、帝はいよいよ怒って應昌も獄に下した。僉都御史の高宏圖、大理寺卿の金世俊は位階を削られ、少卿の周邦基以下は俸を奪われたうえで再審を命じられた。宏圖らは允升を絞刑に当てつつ、老齢である点をそれとなく酌むよう言い添えた。帝は允升は法として死罪だが、特に高齢で重い病があるので死一等を減じるとし、繼榮ともども辺境へ流配した。世賞は贖罪金を納めて杖刑を免れ庶民に落とされた。
- 尚書の胡應台らが應昌の罪を上申すると、帝は軽すぎるとして郎中の徐元嘏を朝廷で杖打たせ、應台の官秩を削って留任させ、應昌は死罪と定められた。
- 崇禎四年(1631年)四月、久しい旱魃のため言論を求めたところ、刑を緩めるよう請う声が多く、そこで應昌および工部尚書の張鳳翔、御史の李長春、給事中の杜齊芳、都督の李如楨の死罪を免じ、辺境の衛所へ流配とした。
- 允升は流配先に赴いてまもなく死んだ。允升は端正・清廉・剛直で、中央・地方の歴任いずれにも実績と名声があり、過失に連座して重い譴責を受けたことを天下が惜しんだ。
易應昌(附伝)
- 易應昌は字を瑞芝といい、臨川の人。萬厯四十一年(1613年)の進士。熹宗の時、御史から累進して大理少卿となったが、逆黨(閹黨)に東林の徒と弾劾されて籍を削られた。
- 崇禎二年(1629年)に左僉都御史として起用され、左副都御史に進み、曹于汴とともに史□(底本欠字)・高㨗の復官の一件に反対の立場を貫いて、当時の人々に重んじられた。そしてこのたび(喬允升の件で)罪を得た。
- 福王の時に召されて旧官に復し、工部右侍郎に遷った。國變(明の滅亡)の後に死んだ。
崇禎朝の刑部尚書十七人
- 帝の在位十七年のあいだに刑部尚書は十七人替わった。薛貞は閹黨として死罪。蘇茂相は半年で罷免。王在晉は着任しないまま兵部に移って去った。喬允升は流配。韓繼思は獄の議定に連座して除名。胡應台だけが無事に職を全うして去った。馮英は弾劾されて流配。鄭三俊は獄の議定に連座して逮捕・拘禁。劉之鳳は獄の議定に連座して絞に処すと論じられ獄中で病死。甄淑は収賄に連座して詔獄に下され、刑部の獄に移されて病死。李覺斯は獄の議定に連座して籍を削られ去った。劉澤深は在職のまま死去。鄭三俊は再び尚書となり吏部に転じた。范景文は着任せず工部に移った。徐石麒は獄の議定に連座して職を落とされ閒住。胡應台は再度の詔にも赴かなかった。その後を継いだ張忻は、賊が京師を陥れると子で庶吉士の張端ともども降伏した。