状元から入閣
- 魏藻徳は順天通州の人。崇禎十三年(1640年)の進士。殿試ののち、帝は非凡の才を得たいと考えて改めて四十八人を文華殿に召し、「今日、内外ともに乱れているが、どうすれば仇に報い恥をそそげるか」と問うた。藻徳はただちに「恥を知ることです」と答え、さらに十一年(1638年)に通州を守った功を自ら述べた。帝は良しとして第一に置き、修撰を授けた。
- 十五年(1642年)、都城が戒厳になると兵事について上疏した。翌年(1643年)三月、召対が旨に適った。藻徳は弁が立ち、帝は自分が引き立てた者であることに加え、抱負があるものと考えた。五月、にわかに禮部右侍郎兼東閣大學士に抜擢されて入閣し政を輔けた。藻徳が部の官銜を力めて辞退したので、少詹事に改められた。
- 正統の末年に兵事が切迫したとき、彭時が殿試第一の身で一年を越えてすぐに入閣したことがあったが、なおも旧官の修撰のままで、飛び越えて大學士を拝した例はなかった。
- 陳演は帝の遇し方の厚いのを見て、曲げて阿り近づいた。八月に追加で会試を行うにあたっては藻徳を副總裁に引き、蔣徳璟・黄景昉を越えて用いた。
- 藻徳は在位中これといった建言はなく、ただ百官に献金させることを提唱しただけであった。
- 十七年(1644年)二月、詔によって兵部尚書兼工部尚書・文淵閣大學士を加えられ、河道・屯田・練兵の諸事を總督して天津に駐することとなり、方岳貢には濟寧に駐することが命じられた。太子を南京へ出すにあたって先に道を清めさせようとしたのである。だが「百官を出してはならない、出せばそのまま逃げ隠れる」と言う者があったので、取りやめとなった。
- 演が罷免されると藻徳が首輔となった。同僚の李建泰・方岳貢・范景文・邱瑜はみな政府に入ったばかりで、救いようがなかった。
- 三月に都城が陥ちると、范景文はこれに殉じ、藻徳・岳貢・邱瑜はともに捕らえられて劉宗敏のもとに幽閉された。賊は令を下し、内閣には十萬金、京卿・錦衣には七萬あるいは五萬・三萬、給事・御史・吏部・翰林には五萬から一萬まで差をつけて、部曹には数千、勲戚には定額なしで取り立てた。藻徳は萬金を出したが賊は少ないとして五日五夜の酷刑を加え、頭が裂けて死んだ。さらにその子を捕らえて追徴した。子が「家はすでに空になった。父が生きていればなお門生や旧知に乞うこともできようが、いまは死んでしまった。どこから工面できよう」と訴えると、賊は刃を振るってこれを斬った。
李建泰――代朕親征の督師
- 李建泰は曲沃の人。天啓五年(1625年)の進士。國子祭酒まで歴任してかなり声望があった。崇禎十六年(1643年)五月、吏部右侍郎に抜擢され、十一月に本官のまま東閣大學士を兼ね、方岳貢とともに命じられた。時政の要点十事を上疏した。
- 翌年(1644年)正月、李自成が山西に迫った。建泰は郷里が禍を受けることを憂え、また家に資財が多くこれを軍資に充てられることから、毅然として賊を滅ぼす志を抱き、常々同僚に語っていた。
- 折しも平陽が陥ちた。帝は朝に臨んで嘆いて言った。「朕は亡国の君ではないのに、事ごとに亡国の相をなしている。祖宗が風雨に櫛梳りしてお築きになった天下を一朝にして失っては、何の面目あって地下でお目にかかれよう。朕は自ら督師して一戦を決し、沙場に死んでも悔いはないが、ただ死んでも目を閉じられまい」と。言い終わって痛哭した。陳演・蔣徳璟ら諸輔臣が代わりを願い出たがいずれも許されなかった。
- 建泰は叩頭して「臣の家は曲沃にございます。私財を出して軍を養い、官の帑を煩わせません。軍を率いて西へ向かうことをお許しください」と言った。帝は大いに喜び、再三ねぎらって「卿が行くのなら、朕は古の推轂の礼にならおう」と言った。
- 建泰は退出するとすぐ、故御史の衛楨固の官を回復し、進士の淩駉に職方主事を授けてともに監軍とし、參將の郭中杰を副總兵として中軍の事を領させることを請い、また進士の石嶐を推薦して延・寧・甘・固の義士を連絡して賊を討ち功を立てさせるよう請うた。帝はいずれも従い、建泰に兵部尚書を加えて尚方剣を賜り、独断で事を行えるようにした。
- 二十六日、将を遣わす礼が行われ、駙馬都尉の萬煒が特牲をもって太廟に告げた。正午近く、帝は正陽門の楼に出御し、衛士は東西に列し、午門から城外まで旌旗・甲仗が盛んに並べられた。内閣・五府・六部・都察院の掌印官および京営の文武大臣が侍立し、鴻臚寺が礼を賛し、御史が儀を糾した。建泰が前に出て辞を述べると、帝は手厚くねぎらい、宴を賜った。御席が中央に置かれ、諸臣が陪侍し、酒が七巡した。帝は自ら金の杯を手にして建泰に三度酌み、そのまま杯を賜った。そのうえで手ずから敕を出し、「朕に代わって親征せよ」と書いた。
- 宴が終わると宦官が紅を掛け花を挿し、鼓楽をもって尚方剣を先導して出た。建泰は叩頭して謝し、暇乞いをした。帝は目でこれを見送った。
- 数里行ったところで乗っていた輿が突然折れ、人々は不吉と思った。
- 建泰は宰輔として督師に出たものの、兵も糧も不足し、連れた者はわずか五百人であった。都を出たばかりのところで曲沃がすでに破られ家産がすべて没収されたと聞き、驚き嘆いて病み、一日三十里しか進めなくなった。士卒も道々多く逃亡した。
- 定興に至ると城門を閉じて入れなかったので、三日留まって攻め破り、その長官を笞打った。保定に至ったが賊の先鋒がすでに迫っていて前進できず、城中に入って屯した。まもなく城が陥ち、知府の何復、郷官の張羅彦らがともに死んだ。建泰は自刎したが死にきれず、賊将の劉方亮に捕らえられて賊のもとへ送られた。
- 賊が敗れると我が大清に降り、内院大學士を授けられたが、まもなく罷免されて帰った。姜瓖が大同で反すると、建泰は遠くからこれに呼応したが、兵は敗れて捕らえられ、誅に伏した。
史論
- 贊に言う。国家の治乱は人の用い方にかかっている。溫體仁が邪佞の身で政を執り、帝を苛酷な方へ導いて統治は厳しく性急なものとなって以来、同じ轍を踏む者が相次いだ。應熊の強情、至發の険しい妬み、國觀の陰険――みな體仁の行いをまねて、国家の元気はすでに枯れ尽きてしまった。演や藻徳の輩に至っては、機知はそれにも及ばず凡庸さはいっそう甚だしく、禍は国に当たり、たちまち我が身にも及んだ。悲しいことである。