明史卷二百五十一 列傳第一百三十九 徐光啟

西学と練兵

  • 徐光啟は字を子先といい、上海の人。萬厯二十五年(1597年)に郷試第一で挙げられ、さらに七年して進士となった。庶吉士から贊善を歴任した。西洋人の利瑪竇(マテオ・リッチ)に従って天文・暦算・火器を学んでその術を究め、そのうえで兵機・屯田・塩策・水利の諸書をあまねく修めた。
  • 楊鎬が四路の軍を喪って京師が大いに動揺したとき、たびたび上疏して兵を訓練して自ら効を挙げたいと請うた。神宗はこれを壮とし、少詹事兼河南道御史に超擢して通州で練兵させ、十議を列上させた。当時、遼の事が急で、請いのとおりにはできず、光啟が上疏して争ってようやく民兵と武器がいくらか支給された。
  • まもなく熹宗が即位したが、光啟は志を伸ばせず、官を裁いてくれるよう請うたが聴かれず、やがて病を理由に帰った。遼陽が破れると召されて起用され、朝廷に戻ると、西洋の大砲を多く鋳造して城の守りに充てるよう力説した。帝はその言をよしとして採用を議しかけたが、光啟は兵部尚書の崔景榮と議が合わず、御史の邱兆麟に弾劾されて、また病と称して帰った。天啟三年に旧官で起用され、まもなく禮部右侍郎に擢せられた。天啟五年、魏忠賢の党の智鋌に弾劾されて職を落とされ閒住となった。

暦法の改修と入閣

  • 崇禎元年に召し還され、あらためて練兵の説を述べた。まもなく左侍郎として部の事務を執った。帝が国用の不足を憂えて廷臣に屯田と塩政のよい策を献ずるよう命じたとき、光啟は「屯政は荒地の開墾にあり、塩政は密売の厳禁にあります」と述べ、帝は褒めて受け入れ、本部(禮部)の尚書に擢した。
  • 当時、帝は日食の予報が外れたので天文官を罪しようとした。光啟は「天文官の観測はもと郭守敬の法によるものです。元のときにも日食があるはずで起きなかったことがありました。守敬でさえそうなのですから、天文官の予測違いも怪しむに足りません。臣の聞くところ、暦は久しくなれば必ず狂うもので、時機を逃さず修正すべきです」と述べた。帝はその言に従い、西洋人の龍華民(ロンゴバルディ)・鄧玉函(テレンツ)・羅雅谷(ロー)らに詔して暦法を推算させ、光啟を監督とした。
  • 崇禎四年春正月、光啟は日躔厯指一巻、測天約説二巻、大測二巻、日躔表二巻、割圜八線表六巻、黄道升度七巻、黄赤距度表一巻、通率表一巻を進めた。この冬十月辛丑朔の日食では、さらに観測についての四説を上ったが、その時差・里差を論じた方法は最も詳密であった。
  • 崇禎五年五月、本官のまま東閣大學士を兼ねて機務に参じ、鄭以偉とともに任命された。累進して太子太保を加えられ文淵閣に進んだ。光啟はもとより経世済民の才を負い世に用いられる志があったが、権柄を握ったときにはすでに年老いており、周延儒・温體仁の専政に遭って建言するところがなかった。翌年十月に卒し、少保を贈られた。

鄭以偉――票擬に不慣れな尚書

  • 鄭以偉は字を子器といい、上饒の人。萬厯二十九年(1601年)の進士。庶吉士に改められて検討を授けられ、累遷して少詹事となった。泰昌元年に禮部右侍郎となった。
  • 天啟元年、光宗を廟に祔するにあたって憲宗を祧すべきだとされたとき、太常寺卿の洪文衡が、睿宗こそ廟に入るべきでないとして祧して玉芝宮に奉ずるよう請うた。以偉が不可としたので沙汰止みとなったが、論者は結局は文衡が正しいとした。まもなく左侍郎として詹事府を協理した。天啟四年、講筵に侍していて宦官と衝突し、上疏して帰郷を願い出た。
  • 崇禎二年に召されて禮部尚書に拝され、久しくして光啟とともに宰相となり、二度辞退したが許されなかった。以偉は身を清く持し、書物は一読して忘れず、文章は奧深く博かったが、票擬(詔勅案の起草)は得意でなかった。「私は万巻には富んでいるが数行には窮する」と言い、後輩に侮られた。章疏の中の「何况」の二字を人名と誤り、糺問する旨を擬したが、帝に駁されて改めてようやく気づいた。これ以来、詞臣は帝に軽んじられ、ついに館員は推官・知県を経る必要があるとの諭が出て、閣臣に翰林だけを用いることはなくなった。以偉はたびたび退隠を乞うたが許されず、翌年六月に在職のまま卒し、太子太保を贈られた。
  • 御史が、光啟と以偉が相次いで没したが、棺を蓋う日には嚢に余財がなかった、手厚い恤典を与えて貪墨の者を恥じ入らせるよう請うた。帝はこれを容れ、光啟に文定、以偉に文恪と諡した。

林釬――魏忠賢の生祠を拒む

  • その二年後、同安の林釬が大學士となったが、半年に満たずに卒した。この人も清廉だと言う者があり、文穆の諡を得た。
  • 釬は字を実甫といい、萬厯四十四年(1616年)の殿試第三人で、編修を授けられた。天啟のとき国子司業を務めていたが、監生の陸萬齢が太学のかたわらに魏忠賢の祠を建てることを請い、名簿を作って金を出し合わせ、針に無理に音頭を取らせようとした。釬は筆を執って塗り消し、その日の夕に櫺星門に冠を掛けてまっすぐ帰った。忠賢は旨を偽ってその籍を削った。崇禎の改元とともに少詹事として起用され、崇禎九年に禮部侍郎から入閣し、謹厚誠実との評があった。
  • 久しくして帝は光啟の博学強記を思い、その家に遺書を求めた。子の驥が入って謝し、「農政全書」六十巻を進めた。詔して担当官に刊行させ、太保を加贈し、その孫を中書舎人に録した。