明史卷二百五十一 列傳第一百三十九 成基命

出自と入閣

  • 成基命は字を靖之といい、大名の人。のち宣宗の諱を避けて字を通称とした。萬厯三十五年(1607年)の進士。庶吉士に改められ、司經局洗馬を歴任して国子監司業の事を代行した。
  • 天啟元年、帝の太学行幸を請う疏を政府に事前に告げずに上ったので、執政者は不快とし、原官のまま司經局に戻らせた。そこで暇を請うて帰郷した。まもなく少詹事として起用され、累進して禮部右侍郎兼太子賓客となり、南京翰林院の事を掌るように改められた。天啟六年、魏忠賢は基命が楊漣と同門の生であるとして職を落とし閒住させた。
  • 崇禎元年に吏部左侍郎として起用された。翌年十月、京師が戒厳となると、基命は旧輔の孫承宗を召し還すこと、いっさいの浮薄な議論を省くこと、嘉靖朝の先例に倣って枢臣を増設すること、を請い、帝はいずれも許した。ひと月余りで禮部尚書兼東閣大學士に拝され、入閣して輔政した。

袁崇煥の逮捕に慎重を請う

  • 庶吉士の金聲が僧の申甫を将に薦めたとき、帝は基命にその部下の兵を検分させた。基命は使えぬと極言し、後に果たして一戦して敗れた。
  • 袁崇煥・祖大壽が入衛したとき、帝は平臺で召見し、崇煥を捕らえて獄吏に付した。大壽はかたわらで股を震わせた。基命ひとりが叩頭して慎重を期すよう二度請うた。帝は「慎重といっても因循であっては何の益がある」と言った。基命はまた叩頭して「敵が城下におります。平時とは違います」と言った。帝はついに取り上げなかった。大壽は軍に戻るとただちに衆を率いて東へ潰走し、帝はこれをたいそう憂えた。基命は「崇煥に手紙を書かせて招けば、必ず帰順しましょう」と言った。
  • 当時は軍事がきわめて切迫しており、基命の建言はしばしば聞き入れられて実行された。戒厳のとき文華殿で召対したおり、帝が法紀の弛緩を力めて刷新すべきだと言うと、基命は「治道は行きすぎを除くことにあります。もつれた糸を解くには糸口を探すのと同じで、急に大改革をすれば乱れがひどくなります」と言った。帝は「緩んでいれば猛でこれを糺すのだ。何が大改革か」と言った。その後、温體仁がいよいよ帝を性急に導き、天下はついに大いに乱れた。

首輔となるも数か月で去る

  • 崇禎三年二月(1630年)、工部主事の李逢申が、基命は袁崇煥の罪を脱がせようとして慎重を乞うたのだと弾劾した。基命は罷免を求め、帝は逢申を一秩貶した。韓爌・李標が相次いで去り、基命はついに首輔となり、周延儒・何如寵・錢象坤とともに事にあたった。永平の回復の功を叙されてともに太子太保を加えられ、文淵閣に進んだ。六月に至って温體仁・吴宗達が入閣し、延儒と體仁が最も帝に寵愛されて基命を排斥したので、基命はその位に安んじられなくなった。
  • 崇煥の議罪のとき、基命は足を病んで入直していなかった。錦衣衛の張道濬が職務放棄として弾劾し、工部主事の陸澄源の疏が続いて上った。基命は奏して弁じた。「澄源は、臣が二度にわたって廷推の首位となったのはみな韓爌らが臣を借りて崇煥を救おうとしたためだと言う。しかし廷推のときには崇煥はまさに信任されていたのだから、後日の失敗を知って救う手を先に打つことなどできようか。その説は逢申から出たものだ。道濬は臣を追い落とすまでやめまい。放帰を乞う」。帝は慰めて留めたが、ついに三度上疏して自ら去った。
  • 基命は性格が寛厚で、事ごとに大体を守った。先に永平など四城がまだ回復していなかったとき、兵部尚書の梁廷棟が総理の馬世龍を恨んで更迭し、枢輔の承宗を揺さぶろうとしたが、基命が力めて取りなしたので、世龍はついに遵化・永平の功を収めた。尚書の張鳳翔・喬允升・韓繼思が相次いで獄吏に下されたときも、いずれも申し開きをしてやった。副都御史の易應昌が詔獄に下されたときは、基命の言により法司に下すよう改められた。
  • 御史の李長春と給事中の杜齊芳が私書の件で極刑に処されようとしたとき、基命は力めて救ったが聴かれず、會極門に長跪して「祖宗の立法では真の死罪でもなお三度覆奏したものです。詔獄で一度訊問しただけで極刑に処すことがありましょうか」と述べ、辰の刻から酉の刻まで立たなかった。帝の意は解け、流謫で済んだ。逢申は初め基命を弾劾したが、後に大砲の暴発の件で獄に下されて流謫と擬されたとき、帝はなお軽すぎるとしたが、これも基命の言によって擬定どおりとなった。
  • 首輔であったのは数か月で、帝が延儒に政を委ねようとしたため、その党に追われた。崇禎八年(1635年)、家で卒し、少保を贈られ、文穆と諡された。